私は、覚悟と責任を負う決意があるときには「断言」すべきだ、と思っている。それは、下記の文章に影響されたためだと思う。
【亀井勝一郎『愛の無常について』角川文庫・67頁以下】
もし孤独の窮極の相があるとすれば、それはどんなすがたを呈するだろうか。孤独は受難するのです。私は最後のキリストという、最高の例をとって、孤独の極限を語りたいと思います。キリストは一生に十二人の弟子しかもっていませんでしたが、その中の一人ユダは裏切り、残りの十一人も、彼が処刑されるときはことごとく逃げ去りました。十字架に登るときのキリストは唯一人でした。彼の十二人の党派は見事に解消されますこれはすでに彼の予見していたところで十字架以前においても、ほんとうは唯ひとりであったわけですが、この唯ひとりのもつ強さとは、神に対して唯ひとりであった、換言すれば神とともに唯二人であったところに存すると思うのです。
処刑の前に総督ピラトがあらわれて、キリストを訊問します。「ここにピラトが言う『されば汝は王なるか』イエス答え給う『われの王たることは汝の言えるごとし。我は之がために生まれ、之がために世に来たれり、すなわち真理につきて証せん為なり。凡て真理に属する者が我が声をきく』ピラト言う『真理とは何ぞ』」(ヨハネ伝第18章)。有名な一節です。
ここでキリストの態度を考えてみましょう。「汝は王なるか」という訊問に対して、キリストは「然り」の答えを与えています。この「王」という意味には、政治的党派的意味は少しもないのですが、キリストはそれに対して一言の弁明をも説明をも加えず、ピラトがどんなつもりで聞いたかをも顧みず、直截に「汝の言えるごとし」と答えています。死の直前のごとき切迫した場合、人はこう答えるより以外ないということが重大なのです。然りか、否か、これを端的に断言しなければならなぬ窮地、いかなる弁明も説明も間にあわぬ場合は、万人にあると思います。
私はこの断言を重視するのです。信仰でも恋愛でも思想問題でも、己自身の内奥からほとばしり出た断言によって、人間は強烈な孤独を自覚するのではないでしょうか。言葉がたとい不十分であると思っても、何かまだ残っていると感じても、或る刹那には、それをかえりみるいとまなく、断言しなければならぬときがある。後から考えると、悔恨に堪えない場合もありましょう。しかし周到な計画のもとに発せられた言葉にもまして、思い余ってあふれ出た刹那の言葉の方に、かえっていのちの切なさがあらわれるのです。
恋愛の言葉で、最後のものは、愛するか否かの断言だけです。然りか、否か、いずれかを言う以外にない。論理的正確さをもついかなる説明も、ここでは通用しませぬ。断言とは一の自己犠牲であります。われ汝を愛すという断言は、ただちにそのための全犠牲を担う決意に通じ、断崖に立った自己を自覚するはずです。孤独を恐れるものは、断言してはならない。孤独を恐れるものは、いつも弁解の言葉を用意していなければならない。様々の条件を考えています。つまり抜け道を顧慮しているわけで、このとき信も愛もその生命を失うでありましょう。