職場では各種の研修があります。
最近では、人の話を「聞く」ことについて扱われたものがありました。
短時間に詰め込んだ日程で、詳しく学んだわけではありませんが、ロールプレイングでは
話す人・聞く人・観察する人、と役割を交代しながら、悪い例と模範例を演じました。
わたしは演技がうまかったらしく、一緒のグループにいた若い人が妙にウケていましたw
それはどうでもいいのですが
相手の不安や怒りの感情を和らげるには、話を遮ったり言い訳をしたりせず、
「聞いて受け止めること」
「相手の感情を害したのであれば、そのことに対しては謝罪する」
などの基本を改めて復習しました。
「聞くことに速く、語ることに遅く」
ものみの塔の出版物にもよく出てくる聖句の一節。
長老には特に求められていますね。
「最近、仕事が忙しくて・・・」
「そうですか。しかし、終わりは近いのです。王国を第一にしましょう」
というふうなやりとりは悪い例です。
例と言うか、こういう対応しか見たことありませんが。
長老に限らず、他の人の悩みや疑問を、「王国第一」とか「エホバを信頼する」とかいう言葉で片づける傾向はよく見られますよね。
もう一つの例は、ものみの塔1984年12月1日号の研究記事より。
「新しい世」が予告どおり来ないことに対する、組織の返答です。
キリスト教世界の地位の確立した諸教会や他の人々にとって,エホバの証人を批判するのはたやすいことです。エホバの証人の出版物は時々特定な事柄が特定の年代に生じ得ると述べてきたためです。
しかし,そのような行動方針は,「ずっと見張っていなさい」というキリストの命令と調和しているのではありませんか。
一方,キリスト教世界の諸教会は,王国を「人間の心の中における神の支配」であると教えることにより,クリスチャンとして見張りを怠らない態度を勧めてきたでしょうか。むしろ彼らは,「終わり」を期待するのは「無意味」,あるいは「取るに足りない神話」と考えて,霊的な怠惰を助長してきたのではないでしょうか。
「終わりの日」がペンテコステの日に始まり,キリスト教時代全体にわたるものであると主張する背教者たちは,クリスチャンとしての目ざとい態度を促進してきたでしょうか。むしろ彼らは,霊的な眠りを誘ってきたのではありませんか。
なるほど,聖書の年代学の裏付けのあるように思えた期待が,予想通りの時期に実現しなかったのは確かです。
しかし,神の目的が成就されるのを見たいと熱心に望むあまり多少の過ちを犯すことは,聖書預言の成就に関して霊的に眠っているよりもはるかに好ましいのではないでしょうか。
モーセも40年の計算間違いをして,イスラエルの苦悩を取り除くために早まって行動しようとしたのではありませんか。
キリストの使徒たちは,王国の実体を完全に誤解していただけでなく,王国が設立されるのを見たいという非常に強い願いを抱いていたのではないでしょうか。
テサロニケの油そそがれたクリスチャンは,「主イエス・キリストの臨在」と「エホバの日」を見たくてたまらなかったのではありませんか。