昨日は母の命日でした。
特別な行事などは、もちろんありません。
昨年9月上旬に会ったときには、だいぶ弱ってきたなぁ、という印象ながら、
ふつうに話しもできたし、早く退院したいなどと意欲も見せていたのに
その1週間後には緩和ケア病棟に移っていました。
自分で起き上がることもできず、意識ももうろうとしているようでした。
その状態で何とか落ち着いていましたが
10月2日の朝、職場に着いたら、弟から着信が2回、そしてショートメールが届いているのに気づきました。
「血圧がだいぶ下がったそうだ。おれは今から病院に行きます」
わたしもすぐに引き返し、ヨメさんと共に病院へ。
母は眠っているように見えましたが、時折、痛そうな表情を見せます。
話しかけたり、背中をさすったりしながら夕方まで過ごしました。
今晩、急に・・・ということはなさそうな気がする、と、親父が言うし、
わたしたちもそう感じたので(何も根拠はないのですが)、夜7時半ごろ、いったん引き上げることにしました。
帰宅して、軽く食事をしてぼんやりしていたら、容体急変の知らせ。
また病院に引き返し、家族がそろったところで、医者が瞳孔や脈を診る。
そして、午後9時2分、臨終の宣告。
1週間ほどは点滴も打てず、痛み止めの投与だけで最期を待つ状態が続いていたので、母も楽になっただろうし、わたしたち家族としても、少しほっとした瞬間でした。
ほっとしたのもつかの間、手分けして親戚へ連絡を入れます。
その後、お棺に収める準備を係の人がやってくれます。
母に着せた服は、集会に着て行ってたものです。
どうしても、それが似合ってしまう。
その準備の間、付き添いのために来てくれていた姉妹たちや、その後に駆けつけてくれたJWたちと話をしながら待ちます。
夜11時近くになり、もう遅いのでJWさんたちには帰ってもらいました。
日付が変わるころだったか、母が病室から運ばれてきました。
たいへん静かな夜の病院内を一緒に移動します。
病院の霊安室には置かず、葬儀場へ直送。
一般の葬儀場の控室に安置してもらいます。そういう形でのJWの通夜を扱った経験も多いところだそうです。
親父と弟が葬儀場まで一緒に行き、わたしたちは病院で見送ることに。
病院裏手の出口まで来ました。
わたしたちと主治医、看護師さんが一人。
静寂のなかを去って行く母に向かって、深々とお辞儀をして見送りました。
翌日が通夜。
安置しているだけで何も特別なことはしませんが、親戚やJWさんたちが朝から夜遅くまで次々に訪れて、母とお別れをしてくれました。
通夜の翌日が火葬。
これは家族だけで・・・という意向を伝えていたつもりでしたが、
火葬場に着いてみたら車3台に分乗したJWさんたちが10名か11名、付いてきていました。
最後にもう一度、母の顔を見ます。
そして、母が厚い扉の向こうに入りました。
親父がボタンを押しました。
これで本当に、お別れです。
昨年の地区大会。
わたしは親父を送っていくハメになって、半日だけ会場にいた、という記事を書きました。
母は3日とも欠席、さすがに体調的に無理だろう、と思っていたのですが
追悼式で思い出の写真が次々に投影される中、
親父と二人並んで写っている写真が。
これは・・・? 地区大会では?
母は大会の3日目だけですが、一日中、会場にいたそうです。
まーた、そんな無茶して・・・
と、少々あきれながら見ていたのですが、大会に1日だけとは言え参加し、
新旧さまざまな仲間たちと会うこともでき、母にとっては、とても幸福な時間だったのでしょう。
亡くなる1ヶ月半前のことでした。
緩和ケア病棟に移ってからの母は、表情の変化もなくなっていたのですが、
母の研究生だった姉妹の娘さん -その当時は小学校に入ったくらいだったかな、今はJWを離れているらしい- その子が赤ちゃんを連れて見舞いに来てくれた時には笑顔を見せたそうで、親父も驚いたそうです。
それに、70年代からの戦友である、いまは他の会衆にいる姉妹たちが来てくれたときにはとても喜んで、一生懸命、手を握ろうとしていたとも聞きました。
膵臓がんとしては異例とも言える3年半を闘いましたが、それだけ持続できたのは、宗教の力も大きかったんだろうなぁ、と思わざるを得ません。
わたしは、ものみの塔なんぞ早いとこ滅んでしまえ、と念じていますが、こんな宗教でも生きがいにしている人はいるわけで・・・難しい問題ですね。
邪教の存在は肯定したくありませんが、信教の自由は、やはり最大限認めるべきものであるとも思います。
命日に寄せて、というタイトルにしましたが、ただの備忘録になってしまいました。
思い出しながら、ここに書かせていただきました。
仮に、母にもう一度、会えるとしたら・・・?
まあ、会わなくてもいいな。
でも
「おかげさんで、ぼちぼち元気で、楽しく暮らしています」
くらいは伝えたいと思いますね。