オヤジさんは「人間のこころは、丸くなければならない」と禅寺の坊主のようなことを言った。


小学校へ上がる前から、わたしは「丸い」ことをイメージさせられた。


それがどのようなことかは「分から」ない。

しかし、また、分かることも、分かる必要はない、のだとも教えられた。


わたしは子供のころ孫悟空のように「腕白小僧」だった。

風のように町内を駆けずり回り、ご近所の屋根の上によじ登ってスズメの巣からヒナを取ってくるようなガキ大将だった。


オヤジさんは、そんな悪さを見つけるたびに、私を居間の床に正座させた。


現在のような床暖房もクーラーもない、化粧板にニスを塗っただけの「板の間」である。

そこに、オヤジさんは私を30分でも1時間でも「正座」させた。


最初は「見つかった」ことを反省しているが、だんだん足が痺れてくる。

そのうち、痛いのを通り過ぎて、足に感覚がなくなってくる。


オヤジさんは椅子に腰掛けて、雑誌を読んだり、時には、腕組みをして眠ったように黙想していた。

「何が悪かったか、言うてみろ」

思い出したように目を開いて、私を見下ろしている。


「野村さんの屋根にあった蜂の巣を落としたからです」

私は、その日にやらかした悪行を詫びた。


「そんなことではない。分からんのなら、まだ、座っていろ」


そうして、感覚の無くなった足がそれでもジンジン痛くて涙がポトポト落ちる。

オヤジさんは、それでも黙想したまま何も言わない。


そして、決まって最後には言うのである。

「分からんのなら、教えてやろう。人間のこころは丸くなければならない。お前のこころは『三角』だった。だから、叱られたんじゃ。分かったら勉強しろ」


わたしは、わんぱくで、毎日のように正座をさせられたのだ。

そして、最後には「ひとの心は丸くなければならない」という禅問答が待っていた。

答えはわかっていたのに、ただの一回も「自分のこころが三角だった」と答えることができなかったのである。


その言葉を無理に口にしようとすると、涙がでてきて言うことができない。

「人のこころが丸くあるべき」であるという真理は、実は、わたしの心の奥にあった。

その深遠までの距離が、こどもの私を泣かせたのだろう。


オヤジさんは、丸いこころを私に教えながら、安らかに逝かれた。

感謝のこころでいっぱいである。