午睡起床。今日もジムは休む。
親から見て子供とは何か?。子供から見て親とは何か?。
夫婦とは何や?。
夫から見て妻とは何や?。妻から見てダンナとは何や。
全て執着。不足愛。
お互いを結び付けているのは存在愛。
特に親子/兄弟姉妹は”血”の執着。
執着と、意識の焦点や繋がりと、どちらが大事か。
言うまでもない。
人間存在とは全てカルマ。天から舞い降りた神人は別として、真っ白など1人もおらぬ。
もしそうなら、この世に生まれ出る必然がない。
人間のことは、人間をやらないと判らない。
厳密には、神人でもこの世に生まれただけでカルマなのや。先祖DNAを受け、個としての存在を持つゆえ。
型である自我にオールマイティの円はない。
カルマとは反対バランス。コインの裏表。
それであれこれ摩擦をやる。
それが親子兄弟や夫婦の関係。カップルも。
だからその関係は何処かで終わる。
また終わらねばならぬもの。
それぞれの焦点を歩くのみ。
善VS悪 愛VS憎 慈愛VS冷酷 光VS闇 神VS悪魔。
全てバランス”カルマ”。
それが、個人から社会まで一切世界を動かす原動力なのである。
しかもそれは横軸のヤジロベエバランスだけでなく、
縦軸にもある。意識の光と無明暗黒など。
もちろん上に行くほど横軸バランスヤジロベエの距離は短くなり、頂点においては縦軸の両極一点のみのバランスとなるだろう。この存在世界(宇宙)の果てのことである。
人が「愛している」と言う時、何処から言ってるのか。
それが問題。
人が怒っている時、何処から怒っているのか。
それが肝腎。
親子~家庭というのは、ただ一緒に住んでいるだけの
”避難場所”のようなもの。「守られる」という自我の安堵。
外世界では見せぬ、ジブン自我を曝け出せる唯一の空間。それもバランス。
今の自分にとって丁度よいバランス空間なのや。
縦軸の意識とは何の関係もない。どころか家庭~親子/兄弟姉妹のしがらみの縛りが”凝る”ゆえ、尚ワルイ。
子供はそれに無意識のうちに染まる。そうして人格が出来て行く。いいもワルイもトラウマの形成となる。
マトモに意識したら、家庭とはとんでもない罪を創り出していることが判るやろ。
もっともそんな意識なぞないゆえ、誰もが平然とそれをやり、子孫累々と続いて来たのがこの社会なのや。
自由になるには1人で生活することや。
静かな空間において、自分の自我の解放~気付き学び~意識の焦点の向上に応じて、新たなバランス相手が出て来るだろう。
人が求めるものは、自分への愛、
出したいものは、相手へ愛。
どころか愛そのもの。
軸上の何処でも同じ。
縦軸への焦点などない”この世の者”の愛。
それはもちろん、霊的なそれの、低い周波数世界における影絵の愛なのではあるが。
縦軸の焦点位置は、互いに絶対交わることはない。
縦軸の焦点位置がお互い近くにあれば、その関係は発展する。そうでなければ、いくら自我領域でそのお互いの溝を埋めようとしても不能。必ずその関係は終わる。
互いに傷だけが残る。
子供は、自分を育ててくれている親の姿を見て、無意識のうちにそれを細胞に焼き付ける。子としての親に対する愛がゆえに。
その愛を自我形成ではなく、縦軸意識の形成とすればよい。しかし、そうして意識が成長し、縦軸の焦点位置が違う相手を受けてあげられるようになっても、
自分の縦軸の焦点を知覚してしまうと、自分が無理をしていることが判る。全てが見えるゆえ。自分自身に正直でないということ。
全ては縦軸の焦点の違いによる必然。ドモならぬことや。
自分自我の中にある、もろもろの執着や執愛を手放して、自分自身のより高い縦軸の焦点を生きるのみとなる。まるやも未だに出来ておらぬ。
見込み/可能性とは、「縦軸における意識の焦点」。
自分自我を越え得るものは、
縦軸の「意識の焦点/集合点」のみ。
人を引き付け合うものは「存在愛」。
「意識の焦点」との違い、よく見つめること。
いずれも重要。 そしていずれが重要か。
この世で生きることは、”愛の軋轢”。
それ自体が経験。越えて行かねばならぬ。
親から見て子供とは何か?。子供から見て親とは何か?。
夫婦とは何や?。
夫から見て妻とは何や?。妻から見てダンナとは何や。
全て執着。不足愛。
お互いを結び付けているのは存在愛。
特に親子/兄弟姉妹は”血”の執着。
執着と、意識の焦点や繋がりと、どちらが大事か。
言うまでもない。
人間存在とは全てカルマ。天から舞い降りた神人は別として、真っ白など1人もおらぬ。
もしそうなら、この世に生まれ出る必然がない。
人間のことは、人間をやらないと判らない。
厳密には、神人でもこの世に生まれただけでカルマなのや。先祖DNAを受け、個としての存在を持つゆえ。
型である自我にオールマイティの円はない。
カルマとは反対バランス。コインの裏表。
それであれこれ摩擦をやる。
それが親子兄弟や夫婦の関係。カップルも。
だからその関係は何処かで終わる。
また終わらねばならぬもの。
それぞれの焦点を歩くのみ。
善VS悪 愛VS憎 慈愛VS冷酷 光VS闇 神VS悪魔。
全てバランス”カルマ”。
それが、個人から社会まで一切世界を動かす原動力なのである。
しかもそれは横軸のヤジロベエバランスだけでなく、
縦軸にもある。意識の光と無明暗黒など。
もちろん上に行くほど横軸バランスヤジロベエの距離は短くなり、頂点においては縦軸の両極一点のみのバランスとなるだろう。この存在世界(宇宙)の果てのことである。
人が「愛している」と言う時、何処から言ってるのか。
それが問題。
人が怒っている時、何処から怒っているのか。
それが肝腎。
親子~家庭というのは、ただ一緒に住んでいるだけの
”避難場所”のようなもの。「守られる」という自我の安堵。
外世界では見せぬ、ジブン自我を曝け出せる唯一の空間。それもバランス。
今の自分にとって丁度よいバランス空間なのや。
縦軸の意識とは何の関係もない。どころか家庭~親子/兄弟姉妹のしがらみの縛りが”凝る”ゆえ、尚ワルイ。
子供はそれに無意識のうちに染まる。そうして人格が出来て行く。いいもワルイもトラウマの形成となる。
マトモに意識したら、家庭とはとんでもない罪を創り出していることが判るやろ。
もっともそんな意識なぞないゆえ、誰もが平然とそれをやり、子孫累々と続いて来たのがこの社会なのや。
自由になるには1人で生活することや。
静かな空間において、自分の自我の解放~気付き学び~意識の焦点の向上に応じて、新たなバランス相手が出て来るだろう。
人が求めるものは、自分への愛、
出したいものは、相手へ愛。
どころか愛そのもの。
軸上の何処でも同じ。
縦軸への焦点などない”この世の者”の愛。
それはもちろん、霊的なそれの、低い周波数世界における影絵の愛なのではあるが。
縦軸の焦点位置は、互いに絶対交わることはない。
縦軸の焦点位置がお互い近くにあれば、その関係は発展する。そうでなければ、いくら自我領域でそのお互いの溝を埋めようとしても不能。必ずその関係は終わる。
互いに傷だけが残る。
子供は、自分を育ててくれている親の姿を見て、無意識のうちにそれを細胞に焼き付ける。子としての親に対する愛がゆえに。
その愛を自我形成ではなく、縦軸意識の形成とすればよい。しかし、そうして意識が成長し、縦軸の焦点位置が違う相手を受けてあげられるようになっても、
自分の縦軸の焦点を知覚してしまうと、自分が無理をしていることが判る。全てが見えるゆえ。自分自身に正直でないということ。
全ては縦軸の焦点の違いによる必然。ドモならぬことや。
自分自我の中にある、もろもろの執着や執愛を手放して、自分自身のより高い縦軸の焦点を生きるのみとなる。まるやも未だに出来ておらぬ。
見込み/可能性とは、「縦軸における意識の焦点」。
自分自我を越え得るものは、
縦軸の「意識の焦点/集合点」のみ。
人を引き付け合うものは「存在愛」。
「意識の焦点」との違い、よく見つめること。
いずれも重要。 そしていずれが重要か。
この世で生きることは、”愛の軋轢”。
それ自体が経験。越えて行かねばならぬ。