午睡22時間。汗ビショ。目覚める前はスッポンポンの若い男。内容は忘れた。コメディのような。。
こういうトリップは好きではない。”真面目にやれ~!”と怒りたくなる。

しかし、怒ってばかりゆえバランスを取る措置かも知れぬ。出るものは全て受けるのみ。

この世自分を否定されると誰でも怒りが出て来る。
それ”この世の者”。自我の思考観念感情の証。

「生きている」とは思考と関係ない。
「生きていること」の上に思考があり世界がある。

だからおかしい。思考の世界にあって「生きていると思っている」わけゆえ。

生きているはずなのに「生きてない」。
そう感じるから”生きてる”と思いたい。

思考や観念に焦点があり、それ以前の「生きてる部分」に焦点がないからそうなる。

朝起きたら”この世だ”。
何をしても”これはこの世だ”と意識する。
そうしていると、よりこの世を充実して生きられる。

普段の寝ぼけマナコの無意識歯磨きではなく、”この世だ”と意識することで「思考を思考と知覚する」ことになり、意識が優先され、無自覚な思考が減じるゆえ。

この世事~この世自分を思考しても、”この世だ”という意識が先にあるゆえ、”この世の者”として思考する。

それがこの世における、思考に入るにおいての「あり方」なのや。

思考で生きるのではない。身体で生きる。
”身体の感覚に生きる”ということや。

”頭を落とせ。身体で生きろ”とはそれや。
”ちゃんと掃除しろ!”も同じ。

掃除が出来ないのは決まって「思考人間」。
掃除や雑事は人生のメインではない無駄なことだと「思考」しているゆえ。自分都合。

生きてるとは「身体で生きている」ことゆえ、身体が動かなくなったら”屍”。

なのに”生きてる~命は大切だ”などと言う。それ思考。
如何にこの西洋主義の狂気文明が本丸転倒の世界か判ろうというもの。

命は大切だと言いながら、愛する人が死んでもすぐ忘れ自分のことに舞い戻る。それの何処が”愛してる”のや?。
死んだらオワリ。それの何処が愛や?。

全て自分都合。愛を自分都合の思考に貶め、平然とオモチャにしているのみ。”屑”。この世の者。

命も愛も永遠で、何処にも問題はない。

問題を起こしているのは常に思考という”サタンの子”。

自分都合に思考することで、ますます分離を促し、本来のものから離れるようにするためである。