今朝の目覚め前は「選択と必然」について。内容は深い。
次元霊との話の細部は思い出せぬが、要するに、

「選択」というものはないということ。
「必然」だけがある。

”必然の因”は、焦点/意志/エネルギー。

だからダンナの浮気も必然。
”私とどっちが・・!”と怒っても仕方ないのや^。
それ自体が的外れ。自己都合ということ。

人間というのは不透明で曖昧なもの。
よきにつけ悪しきにつけ。しかも肉体に支配されてる。

ハッキリせねばならぬのは自分。
相手を責めるのは自己都合。

”怒り”は使うべきものであって、”自我の感情の虜”になるためではない。
怒りによる感情の吐き出しはまた別のこと。それは解放。

怒りを使うためには、自分に焦点/意識のポリシーがなければならぬ。

思考観念の怒りは自己都合。それは自分の尺度。

”意識の怒り”にならぬとアカン。

”コラ~!どこを掃除したんじゃ~!”というやつや^。
怒りの効用は、ショックを与え気付きを促すことにある。

相手の思い込み~自己都合を剥がし「見ること」を意識させることにある。

だからダンナが浮気しても「見たら」よいだけ。
「見れば」自分の焦点/周波数が変わる。
それが「必然」の因となる。

「必然」を避けたいのは自我の保身。
”この世の者”意識。

勇気というのは、「必然」に応じることに他ならぬ。

しかし言っておく。
「必然」を向ける最奥は、常に自分自身であるということ。

自分の行動の「必然」が、自我からのものであるのか意識からのものなのか。

「必然の因」にはいつも愛がある。
自分の中にそれがあるかないかで判断すればよい。