アームの練習から帰宅。帰りはメシ屋で恒例の「塩鯖定食」。今夜の練習はまあまあ。前回より盛況。
2年前に会った子が物凄く強くなっていた。この剛腕クラブで並み居る猛者をバタバタ倒す。ここまで強くなったとは大したもの。やり初めて3年。その時はまるやオジンに全く歯が立たずビックリ。今もまるやの名前を覚えてくれている。
”(まるやさんは)昔はもっと強かったような感じがします”。”それは自分が強くなったからや^”。”そうですか!^”と嬉しそう。
今夜は前回握らなかった26歳の若い子と初握り。スピード一番!。強い^。まるやオジンもスピードは速い。お互い先行した方が勝ち。右は丁度よい互角の練習相手。
その子も喜んでいた^。またやろな^。
年齢職業関係なし。相手の名前さえもよく知らぬ。
アームの話のみ。これもいい世界である。
みんな自分なりのプライドを持ってる。
帰宅すると気/焦点は切り替わり、普段の棟梁まるやになる。
この辺が普通の人と全く違うところである。
外で何をやっていようと”この世はこの世”。
それを自動的にシャットアウトするわけである。
普通の人は家に帰っても同じ。休憩一服~明日のことetc。1人の時も同じ。この世事の思考。
だから何処にも出口がない。
自分のありようを「意識」していない。
何をやっていようと同じ周波数/同じ焦点の自分の中でしか生きてない、ということを意識しておらぬゆえそうなる。
この世のことはこの世のこと。
そのハッキリした割り切り(認識)が第1歩。
この世のことと意識のこと、どちらが大事なことか、というハッキリした認識。
それがないと何も始まらぬ。同じままの自分があるだけ。
そしていつか死ぬのみ。
そうは言ってもそれが出来ないのだからな。。
出来ていれば何も問題はない。完全に道の上にある。
しかし今頃そんなことではもう遅い。
世間が如何に普通に見えても、どこもおかしくないように見えても、その時楽しくても、それによって自分が何某か解放発散出来ても、それは「この世」なのや。
真に大事なことは、「自分自身にしかない」という認識。
そうであるならば、道は永遠に開けている。
2年前に会った子が物凄く強くなっていた。この剛腕クラブで並み居る猛者をバタバタ倒す。ここまで強くなったとは大したもの。やり初めて3年。その時はまるやオジンに全く歯が立たずビックリ。今もまるやの名前を覚えてくれている。
”(まるやさんは)昔はもっと強かったような感じがします”。”それは自分が強くなったからや^”。”そうですか!^”と嬉しそう。
今夜は前回握らなかった26歳の若い子と初握り。スピード一番!。強い^。まるやオジンもスピードは速い。お互い先行した方が勝ち。右は丁度よい互角の練習相手。
その子も喜んでいた^。またやろな^。
年齢職業関係なし。相手の名前さえもよく知らぬ。
アームの話のみ。これもいい世界である。
みんな自分なりのプライドを持ってる。
帰宅すると気/焦点は切り替わり、普段の棟梁まるやになる。
この辺が普通の人と全く違うところである。
外で何をやっていようと”この世はこの世”。
それを自動的にシャットアウトするわけである。
普通の人は家に帰っても同じ。休憩一服~明日のことetc。1人の時も同じ。この世事の思考。
だから何処にも出口がない。
自分のありようを「意識」していない。
何をやっていようと同じ周波数/同じ焦点の自分の中でしか生きてない、ということを意識しておらぬゆえそうなる。
この世のことはこの世のこと。
そのハッキリした割り切り(認識)が第1歩。
この世のことと意識のこと、どちらが大事なことか、というハッキリした認識。
それがないと何も始まらぬ。同じままの自分があるだけ。
そしていつか死ぬのみ。
そうは言ってもそれが出来ないのだからな。。
出来ていれば何も問題はない。完全に道の上にある。
しかし今頃そんなことではもう遅い。
世間が如何に普通に見えても、どこもおかしくないように見えても、その時楽しくても、それによって自分が何某か解放発散出来ても、それは「この世」なのや。
真に大事なことは、「自分自身にしかない」という認識。
そうであるならば、道は永遠に開けている。