意識が幼いというのは致命的。
幼稚園の子に”幼いな”と言ってもサッパリ何のことか判らぬ。

自我というのは辛酸を舐めて鍛えないと「大人」にはならぬようになってる。
そのためにこの無明暗黒社会があるということも判ってない。

それは「自分を映す」ためにあるのや。人も世の中も。
それを見ているのは自分。判断するのも自分。

この世とは意識を成長させるためのドラマの舞台だということが判ってない。
自分のやりたいことが優先で、もっとも大事なことには何ら意識がない。

どんな立場環境に生まれようとも、全て平等であるということが判ってない。
「一者の法則」を知らぬゆえ、他と自分を比較する。

幼い意識は理解成長出来ない。基盤がないゆえ。

苦労すると、”焦点を合わそう”という意識が起こる。
自分について。他者について世の中について。

苦労しても焦点が合ってないと、単なる我執固執~ピント外れで終わるのみ。

「焦点」が全てであって、それがなければ自分の何も一切どうもならぬ。
道とは、その焦点をどんどん引き挙げること。

幼稚園児は苦労など知らぬ。
幼い意識は苦労してないゆえに「焦点を合わそうとする意識がない」。

焦点がないのだから意思などあるわけなく、理解不能~学び不能~吸収不能~方向不能。
全く対象外。

そういうわけであるから、
自分自身のこと以外はドモなることなどない。

先導者は自分を主張して種を蒔くのみ。
そのほとんどは、種がスクスクと成長出来る”豊かな土壌”に落ちることがないのであるが。

人間とは「自分を耕す百姓」。種が蒔かれるために。

イエスは全くそればかり言ったのだが、何千年経っても意識の内実は同じ。
だからラーが言う通り、”収穫される者は少ない”のである。

”この世の者”は怠け者。
この世の者ゆえにそうなっている。

自分を振り返ることなくこの世ばかり見ている。
エゴ/欲/不安/我執/自己都合/優勝劣敗/根無しプライド/死の恐怖~。
見込みなどあろうはずはない。

この世の者とは死に行く者。それ以外の何でもない。

それでも意識がポ~としていられること自体が恩寵であることすら知らぬ。

人間は恩寵の中に生きている寄生虫のようなもの。

さすがにイエスもここまでは言わなんだな・・。

「自己責任」を何に対して果たすのか?。
それが根本命題。