”なぜ日本人は怒らないのか?”。

「ヤスの備忘録」より部分抜粋。

”国内でも、また海外のメディアなどでも「これほど政府や東電にウソをつかれ裏切られているのに、なぜ日本人は怒らないのか?」との疑問が沸き起こっている。

3月11日の東日本大震災が起こった当初、海外のメディアは一斉に日本人の秩序だった行動と規律正しさを称賛する記事を掲載した。しかしそのような海外メディアもいまは、「どんなに痛めつけられても怒らない日本人」を特集するものがとても多い。

実際に被災した福島や宮城の人々は別にしても、なぜその他大多数の日本人は怒らないのだろうか?諸外国であれば、政権の打倒や東電の解体を叫ぶ激しいデモが巷で起こり、実際に政権を打倒したり、東電を解体しているはずである。

諸外国の国民はすぐに怒り、その力で政治を変えることができるのに、なぜ日本人はまったくと言ってよいほど怒らないのだろうか?なぜなのだろか?

・・・それがどうだろか?90年代始めのエイズ反対運動は例外にしても、1970年代以降、日本人は怒りを完全に忘れてしまったかのようだ。

「ただちに健康被害はないので安全だ」を繰り返し、事実をとことん隠蔽する政府。土壌汚染の実態を細かく把握しながらも公表を拒む文部科学省。経産省、原子力保安院、御用学者が一体となった原子力村の既得権益集団による事実の隠蔽。

年間100ミリシーベルトまで安全だと平気で宣言する御用学者。規制値をはるかに上回る可能性のある食品を平気で給食に混ぜる地方自治体など、これまでの日本の常識ではもはや考えることのできない出来事が相次いでいる。その規模は、戦後のどの時期も凌駕している。

「怒らないが愚痴と文句は言う」

確かに現代の日本人は怒りを忘れたかのようだ。だが、多くの愚痴と文句だけはあらゆるところから聞こえて来る。
「政治家は国民のことなど考えていない」、「国民の生活を考えない総理を去るしかない」、「官僚こそが諸悪の根源だ」など聞き慣れた政治批判の大合唱である。

もちろん、そうした愚痴と批判には危機感は感じられない。そして現実を変えるための行動が伴うこともほとんどない。

多くの場合、怒りは現実を変えるための本格的な抗議運動を呼び起こす。ドイツの反原発運動、筆者は方向は正しいとは思わないがアメリカのティーパーティー運動、韓国の多くの市民運動などはそうしたものの典型であろう。

一方、愚痴と文句には、現実を変えるための抗議行動に結び付く積極的な契機は乏しい。
むしろ反対に、現実の矛盾をしょうがなく受け入れ、現実を絶対に変えられないものとして甘受するときに起こってくる諦めの感情こそが、愚痴と文句なのではないかと思う。
つまり、怒りは現実を変えるための抗議行動を呼び起こすが、愚痴と文句は、「しょうがない」と現実を受け入れ、現実を変えることを断念させるというわけだ。

「周囲から突出することの恐怖」

しかし、それにしてもなぜ我々日本人は、怒るかわりに愚痴と文句を言いながら現実を甘受してしまうのだろうか?そこにこそ、我々現代の日本人に特有なメンタリティーが存在しているように思う。・・・”

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