千葉県には、独自のスタンスで元気に頑張っている私鉄がいくつかあります。
『ぬれ煎餅』や”自虐ネタ”ですっかり有名になった銚子電鉄はもとより、当別荘で一昨年訪ねた小湊鉄道やいすみ鉄道などなど、個性派揃いです
今作では、当別荘初登場の私鉄を訪ねます。都内からも近いんですが、意外にもこれまで取り上げてなかった、流鉄に乗ってみます
元々”総武流山電鉄”という社名でしたが、近年略称の『流鉄』を正式社名にしたという同鉄道、どんな路線なのか、早速行きます
常磐線、上野駅から10駅目、↑馬橋駅です(※千葉県松戸市)
流鉄はここから分岐しています
(※馬橋駅は快速通過のため、上野からだと北千住で乗換)
JRホームから、快速線に隣接した↑流鉄ホームが見えます
橋上駅です。流鉄へは改札外乗換です
駅前は↑な感じです(※東口)
JR駅から続く跨線橋に、流鉄のりばへの入口
・と、その時~
流鉄の電車が入ってきました!
2両編成です。↑前の車両が黄色、後が深紅ですが、この編成、オムライスの卵とケチャップを連想させる事から『オムライス電車』だとSNS等で話題になっているんです。なぜこんな色の編成なのか等、同社の車両については後述します
流鉄ホームへ下る階段は↑『木』
↑改札口ですが、流鉄は今もICカード未導入です
昔ながらの改札ブース、都内近郊では珍しいです^
↑ホームの駅名標は最新デザインのものに取換えられてます。
馬橋~流山間・全6駅、5.7kmの短い路線です
常磐特急”ひたち”が気持ちよく通過していきます
僕が乗る便が入ってきました^
20m、3ドア車、西武から購入した車です
↑路線図はかわいいイラストで、しかも全線の線形までわかるというスグレものw。途中の小金城趾駅のみに離合線がある事がわかります
車内広告で目立っていたのが↑の鉄道模型メーカーで、『流鉄の模型』を出すとの事、流鉄とのコラボ企画のようですが、かなり力が入ってましたw
発車しました!
常磐線と500m程並走した後・
離れていきましたが、実は次駅まではそんなに離れてないんです。というのは・
↑次の幸谷(こうや)駅ですが、常磐線/武蔵野線の新松戸駅と徒歩すぐで、接続駅なんです。馬橋よりも幸谷から乗る人のほうが多かった感じです
(※幸谷駅、復路で詳述します)
幸谷駅付近は家屋やマンションがびっしり並び、都心に近いベッドタウンの光景です
しかし、少し走ると緑も増えてきます
離合線が分かれていくと・
2駅目、小金城趾駅です。日中も含め殆どの時間帯で同駅行き違いとなっています。
小金城趾駅も、復路下車して、駅名となっている城跡を紹介します。
次、3駅目は↑鰭ヶ崎(ひれがさき)駅
「鰭」の字が駅名で使われている例は、僕が知る限り全国的にほとんどなく、かなりの珍駅名です^
なお、所在地は馬橋~小金城趾駅までは松戸市、鰭ヶ崎~流山駅は流山市に位置します
その次、終点の一つ手前が平和台駅です。↑黄色い帽子の駅員さんがおられますが、流鉄は全駅に駅員を配置しています。
地方私鉄では珍しいですが、一方、列車はワンマンにしていて、短距離の近郊路線には良い方式だと僕は思います
・そして、電車は終点へ、線路が枝分かれしてきます
終点・流山駅に到着しました
"オムライス電車"で馬橋から約11分、路盤(線路)が少々わるいのか結構揺れましたw
でも、今時なかなか味わえない乗り心地でよかったです^
鉄道むすめ、流鉄にもいますw
↑幸谷 なのはです^
ホームの端からは車庫が見えます。↑ご覧の通り、編成ごとに色を変えてあります。その上流鉄は1970年頃から編成ごとに愛称を付けて運行していて、この分野(?)では先駆者といえますw
現在は5編成(※2両×5 計10両)が在籍しています
↑左が『流星』、↑右の緑色が『若葉』ですが、
件の”オムライス電車”は、深紅のほうが『あかぎ』、黄色が『なの花』で、本来は同色同士で連結されていました。しかし・
ところが昨年(2021)、『なの花』の1両に不具合が発生、折しも『あかぎ』編成の全検とも重なり、ラッシュ時には予備車なしというギリギリの状態となってしまいました
そこで流鉄は、なの花の故障してないほうと、あかぎのうち1両を大急ぎで検査を済ませ連結、”混成”で運用、なんとか切り抜けたんです。
しかしこの”苦肉の策”、流鉄が予想してなかった方向へ話がすすんでいきます
色の組合せが、SNS等で『オムライス電車』だと好評になり、味をしめた流鉄は(笑)、後に修理/検査を終え復帰した残り片方の2両を復元組成せず、そのままもう1編成の『オムライス電車』に仕立てw、”あかぎ/なの花”混成を2編成で運用。夏頃までこの状態で運行するそうです^^
↑見ての通り、流鉄は全車、西武の中古車です。
しかし流鉄は、西武の系列ではありません。
1916(大正5)年開通という100年以上の歴史を誇りますが、創業以来どこの大手系列にも入った事がないという、独立独歩の会社です。
ではここで、流鉄の歴史を簡単に纏めます
流鉄の創業は大正期、流山の工場で生産されていた味噌・酒やみりんを輸送し地域振興を図るため、地元有力者はもとより住民こぞって出資し、流山軽便鉄道として設立しました。現在と同じ馬橋~流山間で開業しました
後に国鉄貨車の直通乗入も開始しましたが、戦後はトラックへの移行がすすみ、1971年に貨物輸送を廃止。以降は旅客専業となります。
旅客に関しては前述の通り、都内にも近く沿線人口も多いため通勤輸送のベースはありますが、近年つくばエクスプレスの開業により流山市内に駅が複数新設され、一定数の乗客がTXへ移ったとの事で、不安要素もあります・
↑は流山駅の時刻表ですが、日中11~14時のみ20分毎のほかは全時間ほぼ15分間隔、朝夕13分ヘッドで、かなりフリークエンシーなダイヤです。中でも特筆すべきは始発が4:55、地方私鉄で始発を4時台に出してるのは珍しいです
でもこのダイヤ、武蔵野線やTXの開業により、長年流鉄が独占だった流山市で”旅客の獲得競争”が始まり、これ以上利便性は削れないというのがあります
また流鉄は、今時の鉄道会社では珍しく、副業をほとんどやっていません。不動産業をわずかにやっている以外は、”定番”のバスやタクシーはおろか、小売業や旅行業等何もしておらず、鉄道一筋(?)の会社です^
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ここからは、流鉄の街・流山を少し街ブラしてみます
松戸市の隣、江戸川を挟み埼玉県とも境を接する流山市ですが、明治維新の廃藩置県時に発足した”葛飾県”の県庁所在地だったという歴史ある街でもあります
↑駅前の案内図には『白みりん発祥の地』とあります。流山はみりんを始め、醸造業で栄えました。また、古民家も多く残っています。早速歩いてみます
流鉄と江戸川に挟まれた旧市街地には、多くの古民家や寺社があり、歴史ある街並となっています
駅からすぐに跨線橋(※歩道橋)があって・・
車庫や駅全体が見渡せます。流鉄っちゃんに来たら立寄り必須ですw
その跨線橋から、↑緩やかに弧を描きカーブしていく路地
”路地”にしては広いんですが、この道は『貨物引込線跡』です。
どこへ引き込んでいたかというと~
工場の壁、↑に突き当ります
この工場は、現在もみりんを生産している『流山キッコーマン㈱』.です。ここへ線路は繋がっていました。
通称”万上線”と呼ばれていたそうです。流鉄が貨物を扱っていた頃、流山駅からここまで線路が敷かれ、みりん等を出荷していました。
キッコーマンのみりんブランドで有名な『万上本みりん』は、ここで造られています
工場の壁には↑近年、その歴史を解説するパネルが設置されました。”みりんの街”流山の一端を知る事が出来ます
↑旧万上線の貨物駅、貴重な写真も拡大展示されています
↑工場の壁が凹んでいる所があり、そこには・
庚申塔が保存されていました。
↑基台には”三猿”も彫られ、かなり凝っています。
江戸期、神仏を拝む大義名分で集まっていた庚申講ですが、実質は娯楽の少なかった庶民の楽しみだったようです。また、大山詣等のために”無尽”と呼ばれる積立貯金を共同でする場でもありました。この”無尽”の考え方は、明治期以降に「相互銀行」として事業化されてゆきます(※現在の第二地銀)
ここ、流山三丁目の庚申講は、↑現地看板によると記録や道具が体系的に多く伝わり、江戸期の民俗を知るに貴重な史料との事(※流山市民俗文化財)
この流山キッコーマン㈱ですが、野田市に本社工場をおくキッコーマン本体と同時に設立(※旧「万上味醂㈱」)され、100年以上に亘ってみりんの生産を続けています
残念ながら内部見学はやってないんですが、流山市が同社と協力し、味醂製造開始200年を記念し、工場の壁を美装して歴史パネルの展示を始めました
名付けて『まちなかミュージアム』です
明治期の商標には↑『地球第一等』とも記され、当時のみりんにかけるプライドが感じられます
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引続き、街中を歩いてゆきます
↑工場横の道、通称「万上通り」といいます
次は・・
アノ新選組・近藤勇ゆかりの場所があるとの事で、行ってみます
路地の一角、↑大きな屋根の古い建物、”新選組陣屋跡”だった秋元家の土蔵です。(※国有形文化財)
陣屋そのものだった建物は現在ありませんが、この土蔵をはじめ、往時ゆかりの文物が残されています。ではなぜここが”新選組ゆかりの地”なのか・・
現地解説板によると、ご存じ・旧幕府派の武闘組織だった新選組は、戊辰戦争・鳥羽伏見の戦いで新政府軍に敗れ、東へ敗走、旧幕軍とともにここ流山へ到着しました。
この情報を得た新政府軍は流山を包囲し、この時近藤勇は、被害を最小限にするため単身投降、流山は火の海となる事を免れました。当地で近藤は、土方歳三と永遠の訣別をする事となったんです。
土方はその後北へ転戦、箱館で戦死。近藤は投降後に刑場の露と消えました。この『流山での別れ』の僅か1週間後、江戸城は無血開城となります。維新前後の激しい変遷、流山もその中にありました・
そんな陣屋跡ですが、今は隣接して土産店があり、本場のみりん等が入手できます
陣屋跡がある路地は”閻魔堂横丁”といい、その名の通り↑閻魔堂もあります。
↑一見ふつうの民家みたいな閻魔堂ですが、中には~
開いてなかったのでガラス越しですが、閻魔様がいました(謹写)
次は、本町通りへ、古民家が多いエリアです。
↑早速見えてきました
清水屋本店、明治中期の建造との事です(※国有形文化財)
現在も和菓子店として現役です
でもなぜか↑の通り、屋号が白く塗りつぶされています。理由は不明ですが、文字を違う色で浮き上がらせたらインパクトあるだろうなぁと思います
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その向かい側にも、↑古い家
これは~
旧寺田園です(※国有形文化財)
みりん製造や江戸川での水運業をしていたそうですが、明治に入りお茶や乾物を商っていたそうです。最近まで”万華鏡ギャラリー”として公開されてたんですが、現在改装のため閉鎖中です
さらに、本町通りを探索
次はお寺へ、常与寺です。
14世紀に創建された、日蓮宗のお寺です。
静かに佇む本堂
同寺もまた、歴史の舞台に立った時期がありました。
↑は『千葉師範学校発祥の地』碑
明治初年、新政府発足とともに学制が実施、教育を国発展の柱とした日本ですが、千葉県一円に小学校教員を送り込むための養成所がこの常与寺に設置されました。↑碑には「2週間の研修で各校へ赴任した」とあり、近代日本の建設を急いだ往時が窺えます。
前述の通り葛飾県の県庁所在地だった流山は、教育の先進地でもありました
↑日蓮の画像一幅を所蔵しているとの事です(※流山市指定文化財)
さらに歩くと~
今度は神社、浅間神社といいます。
浅間神社といえば”富士信仰”ですが、同社にも「富士塚」があります
富士塚は↑本堂の裏手にあります
お~
なんかゴツゴツとした丘が・・
↑「登れるが、危ないので自己責任で」という掲示
登ってみましたが、たしかに登山道がけもの道並に狭い上、手すり等一切なく、高齢者や子供さんは止めてといたほうがいいと思います
この富士塚、本物の富士山から持ってきたボク石(溶岩)が配置されています。全国の浅間神社にある富士塚中でも本格的なものとされています
なんとか頂上へ^^
流山の街を一望
降りる時のほうがコワかったですw
麓から遥拝するだけでもご利益があるという”流山のパワースポット”なので、無理しないようおすすめします^
古民家/商家が立ち並ぶ本町通り界隈、流山の歴史が凝縮されています
↑商家をリノベしたレストラン、本場のみりんを使った料理も味わえるとの事
次に、市街の西側を流れる、江戸川へ出てみます
きれいな菖蒲(?)が自生している河原
堤防を上がってみると~
お~
この日は曇天でしたが、スカイツリーがうっすらと見えました
対岸は埼玉県三郷市です
流鉄が開通する以前は、みりん等の貨物はこの江戸川の水運を使っていました。また、対岸への渡し船もあったそうですが、今はその痕跡はありません。静かな川でした
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流山駅に戻ってきました
券売機は最新型っぽいのでしたが、↑昔ながらのガラス越し窓口とかもあってレトロな駅です。なお、改札も↑昔ながらですが、同社では自動改札やICカード導入予定は2022時点で、一切ないそうです
都心近郊なのに、こういう所もやはり『独立独歩』な感じです・
・では、復路です。復路は2駅で下車します
↑往路で”離合駅”として紹介した、小金城趾駅で降ります
橋上駅になってますが、何とも地味な感じ
駅名の標示も見当たらない?と思ったら~
↑階段横に1つだけ、ワープロ打ちの駅名w
これから、徒歩10分程にある、駅名由来の『小金城跡』を見学に行きます
住宅地の中に、↑こんもりと緑の丘が見えてきます
小金城跡です
現在は、松戸市が『大谷口歴史公園』として保存しています。入ってみます
(※小金城趾駅~馬橋駅間は松戸市になります)
小金城は、戦国時代・16世紀に千葉氏の重臣、高樹胤辰の居城でした。当時の平山城として最大級の規模だったといいます。
城跡内は、周囲が住宅という事を忘れそうになる鬱蒼とした世界です
↑木の門柱のようなものが・・(※勿論復元と思われますが)
ここは~
”金杉口”という虎口の跡だそうです
同城には4ヵ所の虎口(※城門)があったとの事。
さらに登ると~
丘上の、広いスペースに出ました。
江戸期の城なら『ここが天守跡』となりそうですが、小金城の場合そうではなかったようで、メインの”本城”跡は、周囲の住宅開発により滅失したとの事です
一名「大谷口城」といわれ(※公園名となっている)、城下には商人街や寺町が並び、現在の姿から想像できない隆盛ぶりだったとの事
現地解説板の↑古写真では、城域は約1km先の常磐線まで達しており、規模の大きさがわかります
お濠の跡がかすかに残っています
このお濠ですが、『畝堀』という珍しい様式で、濠の底に垂直にギザギザの起伏が造られていて、侵入した敵が足を滑らせやすい構造だとの事です(※現地板による)
都内から至近に、こんな野趣豊かな古城跡が残ってたのかと驚くと同時に、僕はここの見学で、ある”長年の疑問”が溶解しました。
それとは~
常磐線の「北小金駅」って、ここに対しての”北”か(?)という事w
後日調べると、北小金駅の周辺も水戸街道の『小金宿』として栄えた歴史があるようです。松戸も深堀りすれば面白くなってくるかも・^
わずか5.7kmの短い沿線に、深い歴史を持つ流鉄です
復路は馬橋まで乗らず、一つ手前の幸谷駅までとします。
往路でチラッとふれましたが、この駅はJR新松戸駅と接続しています。その様子をご覧下さい
もう一つ、この幸谷駅、降りてみて初めてわかった事がありました
それは~
幸谷駅、↑マンションの1階にあるんです(驚)
たぶん流鉄が分譲したマンションと思われますが、これは交通至便w
JR駅へ向かいます
駅前の踏切は、↑武蔵野線高架の下です
徒歩30秒で、↑武蔵野線ホームが見えますw
新松戸駅でゴールとします。常磐線で帰京
いかがでしたでしょうか、流鉄
都市近郊の短距離路線としてどう生き残っていくのか、今後も鉄道専業だけでいいのか、注目したいところです・
☆関連過去作リンク
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vol.317 利根流れる3県境、醤油の街~ 千葉・関宿 / 野田市 小ツーリング | 旅ブログ Wo’s別荘 (ameblo.jp)
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