風薫る5月、今年もツーリングシーズンがやって参りました
とはいっても、昨年からのコロナ禍、思う存分走りに行く事が出来ず、もどかしい思いです
当別荘恒例、春のツーリング始めですが、本年は去る4月初旬(※緊急事態宣言前)に行ってきた、千葉県・旭市へのバイク行を、蔵出しでご覧頂きます。事前の想像以上に様々な顔を持つ街でした。今作は前置きは短めにして^、早速スタートします
早朝からやって参りました、↑とある高速のPA
ここは~
千葉東金道路・野呂PAです
当別荘、2019~21年の3年間を『初心に返る』シリーズとしています。その最終年となる今年、昨年に続き、上京当初よく走りに来ていた房総を訪ねます。
名の通り、千葉市~東金市を東西に貫く千葉東金道路ですが、これから九十九里浜へ走りたいと思います
松尾横芝ICから一般道へ、もう外房です
まずは、蓮沼海浜公園を目指します
その前に、
途中で道の駅を見かけたので、トイレに寄ります
広々とした駐車場、↑道の駅『オライはすぬま』です。
早朝なので、まだお店は開いてませんが、"24時間、無料でトイレと駐車場が使える"というのが道の駅公認の条件なので、こういう時便利です^
(※ちなみに"オライ"とは、当地の言葉で"私の家"です)
ここは千葉県山武市になるんですが、つい近年まで、"蓮沼村"でした。平成の大合併で山武郡中部の4町村が併合し、山武市誕生によって解村しました。
道の駅にあった↑閉村記念碑、碑文によると同村は1889(明治22)年に町村制発足時以来、どことも合併せず歩んできたそうですが、平成大合併により、117年の歴史に終止符を打ったそうです。
駐車場に舟も停まっているオライはすぬまを後に、海へ向います
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着きました、千葉県立蓮沼海浜公園です
↑地図の通り、九十九里浜沿いに延びる、約2km以上に及ぶ長~い公園です
各種スポーツ施設が充実、特に夏季はプールが人気との事
又、長い園内を生かして敷かれた↑パークトレインは、この種のミニ鉄道としては日本最長距離(※約2.1km)を誇るそうです
2キロって、本物の鉄道の1駅間ですよw
しかしこの公園の魅力は、果てしなく広がる九十九里浜のほぼ中心にある事
早速、浜を見に行きます
海への道が途切れた先には~
広大な砂浜が、どこまでも続いています。
日本有数の名景の浜辺、九十九里浜です^
実は僕上京してきた頃、一番先にバイクで走りたかったのが、この九十九里浜でした。その願いを果たし、Wo号で初めてここへ辿り着いた時の感動は今も忘れられません。あの頃と同じ、雄大な光景を久々に味わい、大満足でした
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蓮沼を出て、今作のメイン、旭市へ向かいます。
九十九里浜沿いにつづく街並を、北東へ走ります
旭市へ入りました!
九十九里浜の北東端にあたる街で、隣は銚子市です
旭市といえば、近年あった、あの出来事を思い起こすかたもおられると思います。
旭市最初は、その史実を伝える資料館を見学します。
海岸沿い、旭市・飯岡地区にある、いいおか潮騒ホテル
このホテルに、『旭市防災資料館』が併設されています。
元は国民宿舎だったんですが、民営ホテルに移行したそうです。
その一角を、旭市の資料館が占めています。
この防災資料館の主題ですが、旭市は2011年の東日本大震災の津波において、関東で最大の被害が出た街です。その史実を未来に伝え、教訓とするため、震災後同市が設置しました。
東日本大震災後の津波といえば、宮城や岩手での被害が甚大でしたが、ここ千葉県でも各地で被害がありました。
中でもこの、旭市・飯岡地区は、後述する理由で最大高7.6mの津波が押し寄せ、16名もの方が亡くなられました。
館内に入ってまず目に入るのが、↑の時計。
市内の農協前にあったもので、津波が襲来した時刻、午後5時26分をさしたまま止まっています。
農協のビルは津波によって浸水し、使えなくなりましたが、この時計台は津波の証人として「忘れじの時」と命名され、当館で保存される事になりました。
展示は、当時の被害状況や被災された方々の姿をメインとしつつも、『なぜ旭市で津波の被害が大きくなったのか?』という、津波のメカニズム解説にも重きをおいています。
↑図の通り、旭市は、犬吠埼のある銚子市の西隣にあります。
太平洋からは少し引っ込んだ感じにも見え、素人目には津波被害は少なそうにもみえますが、しかし・
被害は、銚子市が比較的少な目だったのに対し、旭市に大きな被害が集中しました。なぜなのか?
詳しくみていきます。
旭市の中でも、本館のある飯岡地区は、↑図右方にある岬の西側、東側(太平洋)から津波が襲来すると、飯岡の西側にある海岸に接岸した津波が再び「反射波」となり飯岡地区へ逆流、太平洋からの後続波と衝突し、さらに波高の急上昇を招いてしまいました。
この「反射波」が主因で、津波は越堤して内陸部へ流れ込み、大きな被害をもたらしました。
一瞬にして街が津波によって消えてしまった旭市・飯岡地区、しかも同地区では地震による液状化も発生し、被害が増大してしまいました。
しかも、↑パネルによると、津波は3波に亘って旭へ襲来しました。
第1波(15:50頃)、第2波(16:20頃)、そして一番大きかったのが第3波(17:20頃)でした。
第1波のあと、次第に波高は小さくなっていくように感じられたとの事で、その後第2波の時は堤防を越えなかった事から、人々の間に「収束したか」と、一瞬の油断が生まれてしまったそうです。
その間隙を突くように、一番大きな第3波が、一瞬に飯岡を襲いました。
全壊336世帯をはじめ、3000世帯以上が被害をうけ、沢山の方々が市内10ヵ所に設けられた避難所で過ごしました。当時を再現したコーナーも。
↑震災直後の千葉日報を閲覧できます。生々しい記事を読むと、混乱を極めた当時が思い起こされます。
そんな中、被災各県を行幸啓されて励まされた両陛下(※現・上皇ご夫妻)ですが、東北各県への旅に先立って最初に訪問されたのが、ここ、旭市でした。
お顔を近づけて被災された方々と話される両陛下。僕がこれまで見た報道写真には覚えがない程、被災者のかたとの距離が至近です。おそらく同館オリジナルの写真と思われます。
そして、旭市の復興と発展を期して、展示は結ばれていました。
記録動画も視聴できるほか、館のかたが丁寧に説明して下さり、大変有意義な見学となりました。東日本大震災では東北だけでなく、首都圏でこんな激甚な災害があった事は決して忘れてならないし、物心両面での備えを怠ってはならないと改めて思いました。
同資料館(潮騒ホテル)には震災後、↑の広幅外階段が新設され、津波避難ビルの機能を付加しました。教訓を現場に生かす、旭市です。
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資料館の真ん前、海岸へ出てみます
サーフィンのメッカでもある九十九里浜、この日もサーファーが波に乗っているのがみられました
この飯岡海岸にはいくつか目に留まった碑があったので、紹介していきます。
まず↑、津波を記録し伝えるための記念碑。
そして、毛色ガラッと変わりますが、↑アノ"あしたのジョー"をかたどった碑も
旭市は、ちばてつやさんが少年期住んでいたんだそうです。
彼の一家は戦時中朝鮮半島や満州で暮らし、戦後日本へ引き揚げてきた直後に千葉へきたとの事です。
又、浪曲の題目"天保水滸伝"で知られる飯岡助五郎、まさに名の通りこの飯岡で漁業の網元を営みつつ、侠客として地域の治安にも関わった当地の有力者だったとの事
さらに、↑『座頭市発祥の碑』
旭市はアノ、座頭市の物語が生まれた地でもあります。
先程前出の飯岡助五郎の所に、いずこからか流れてきて盃を受けた盲目の侠客の武勇伝ですが、モデルとなった男は作者・子母澤寛が実際に取材した話から物語として書かれたとの事。
数多くTVドラマや映画化された座頭市物語、全くのフィクションではなく、実在した人物をモチーフに書かれた作品だったという事になります
潮騒ホテルからわずか50m程の範囲で、これだけ数々の碑が立つ飯岡、予備知識なしで訪れたので驚きの連続でした
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見所多かった飯岡海岸を出て、先程資料館の地図で見た、漁港がある岬に展望台があるというので行ってみます
潮騒ホテルからすぐ、↑岬がみえてきます
漁港のむこうには、テーブルマウンテンのような地形が
そして、岬の突端には展望台があるのも確認できます
やって参りました
刑部(ぎょうぶ)岬といいます。
↑の展望台は、"光と風"という洒落た名前がついています
岬に立つ飯岡灯台
1956(昭和31)年初点との事。
この灯台がある岬の突端から眺める風景、絶景です
↑北東側、銚子市方面へ目をやれば、屏風ヶ浦と呼ばれる荒々しい断崖が連なる海岸が犬吠埼方面へ、約10kmに亘ってつづきます。崖の高さは40~50m、その光景はイギリス・ドーバーにある断崖を彷彿とさせる事から『東洋のドーバー』とも呼ばれるそうです(※現地解説板による)
この刑部岬のある飯岡付近が、九十九里浜の北端にあたります。
そして反対、南東側には、先程走ってきた飯岡海岸や漁港、そして旭の街が一望の下
この刑部岬、朝日や夕陽は勿論、夜景も美しいとの事で、日本夜景遺産や日本の夕陽・朝日100選にも選ばれる等、数々の名景プライズをほしいままにしている絶景スポットです^
つづいて↑、↑"展望台 光と風"に登ってみます
展望台は3層あり、下から↑の屋内展望台、オープンエア展望台、そして屋上にも上れます
屋内層に展示してある↑、『飯岡石』
屏風ヶ浦から崩落した岩石が、海流で飯岡の海岸へ流れ着く頃には↑のように丸くなり、当地の人はこれを石垣等に利用してきたとの事。
中には海生生物が穿った穴がある石もあり、その穴に海風が吹き込むと笛のように音が鳴る事から、当地には"天の岩笛"というロマンある名の民話も伝わるという事です
屋内展望室から見る、↑漁港方面
雨の日も、ここからならゆっくり眺望できます
その上層のオープンエア層は、↑な感じ。
展望台名の通り、光と風を感じる空間です^
床のタイルは、↑千葉県の形が
これを見て改めて思いましたが、当別荘で度々訪れる千葉県/房総半島、ホント名所が豊富です
海風に吹かれながら、しばし旭の光景を眺めました
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ここから後は、海辺から離れていきます
昼食はツーリング作恒例の、道の駅で
旭市の道の駅、『季楽里(きらり)あさひ』へ。
Wo号初訪問ですが、なかなかの規模
お隣銚子市の、銚子電鉄グッズも販売。
"ぬれ煎餅"はもはや同電鉄の本業です
館内には、千葉のお約束^、落花生コーナー
ここの名物、飯岡漁港水揚げの魚天ぷら定食を頂きました(※美味)^
ラストは、内陸部へ走ってゆきます
旭の旧市街地へ入っていきます
JR旭駅へ寄ります
総武本線、千葉駅から約1時間20分程です
小さな駅ですが、市の玄関とあって、特急しおさい号(※東京~銚子間)も停車します
なお遅ればせながら、旭市の概要ですが、同駅周辺に元々あった旧・旭市をベースに、平成大合併時、先程の飯岡町等の3町が併合して新た"新・旭市"が誕生し、現在に至っています
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本作さいごに、旭市内陸部にある史跡をご覧頂きます
県道を成田方面へしばらく走ると、↑『大原幽学ゆかりの里』と書かれたアーチが
大原幽学とはどういう人物なのか?これから訪ねます
↑"大原幽学遺跡史跡公園"の大きな看板&駐車場にWo号を停めます。予備知識なく来たんですが、なんか凄そうな予感^
早速見学します
駐車場から史跡まで、田んぼの中を少し歩きます
山すそに近づくと、史跡の範囲となりました。
(※国史跡)
旧宅をはじめ、いくつかの建物と記念館があります。
・で、この大原幽学とは、どんな人物だったのか、ですが・
大原幽学(1797-1858)
詳しくは↑の看板を拡大してご覧頂きたいですが(手抜き^)、現在の名古屋市で生まれた幽学は、若い頃は近畿で流浪の生活をおくり、その中で仏教・儒教・神道をとり入れた独特の道徳学・『性学』という学問を開きます。
後にこの旭市の一部となる長部村へ招請され、農業指導と性学の普及に当地で務めたとの事
また、幽学は農業振興にあたり、『先祖株組合』という、現在でいう農協のような組織を設立、こういう組織としては世界初だったそうです。
史跡内へ入ります
木戸のむこうには~
古民家が一軒・
↑が、幽学が住んでいた旧宅だそうです
(※国史跡)
しかし、一人物についてのゆかりの地が、これだけ広大な範囲で国史跡に指定されているのは、全国各地訪ねたWoもあまり覚えがありません。幽学が当地に残した『経済の安定と、道徳心を一体とした地域の振興』が高く評価されているに他ならないという事でしょう。
旧宅から一段高い丘には~
↑お堂風の建物がありますが、これは寺社ではありません。
『大原聖殿』と呼ばれ、幽学の死後建てられました。
当初神社として神社本庁へ申請したとの事ですが認可されず、この名になったとの事です。
しかし、物事には必ず盛衰があるもので、地域に性学が広まるにつれ、この地に建てられていた『改心楼』という教導所(塾)へ通う農民の動きが活発化。
人の動きには元々ナーバスな幕府に警戒されるところとなり、やがて幽学に反発する勢力が改心楼を襲撃、これを機に幕府は改心楼の取壊しや先祖株組合の解散を命令。
「これまでやってきた事は何だったのか」と失意した幽学はこの翌年(※1858(文久5)年)、明治維新の直前に、文明開化の世をみる事なく、切腹により自らの生涯を閉じました。
聖殿のさらに一段上には、大きな古農家が保存されています。
旧林家住宅(※千葉県有形文化財)
元は別の場所に建っていたそうですが、史跡公園の整備とともに当地へ移築されました。
幽学の指導・監修で建築されたと伝わります。
幕末の房総で一時期花開いた、経済活動と"人としてのモラル"を同時に追求していた先進の農村が、この房総の東端近くにあったという史実に驚きます。
幽学も、まさか後年ここまで再評価されるとは天国で驚いているかもです^
史跡内に建つ、↑幽学記念館ですが、残念ながら時間切れで見学できませんでした
時間がきました。
帰路は東関道からのルートにすべく、成田方面へ走ります
東関道・大栄ICから高速の人に、帰京の途につきます
一昨年から3年に亘って企画した、"ツーリング始め・初心に返る"企画でした。最終回の今作は千葉県・旭市を取り上げました。
美しい九十九里の北端の街、そして津波被害を伝え、未来を拓こうとしている風光明媚な街でした。
意外な名所や伝説も豊富で、予想よりずっと充実したバイク行となりました。コロナ収束が未だ見通せない昨今、本年度のツーリング、春季はこれのみになるかもですが、情勢をみながら可能な範囲で走っていこうと思っています
(※2023.11 文一部修正)