vol.369 2021ツーリング始め 九十九里の東端 千葉・旭市へ  | 旅ブログ Wo’s別荘

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風薫る5月、今年もツーリングシーズンがやって参りましたクローバー

とはいっても、昨年からのコロナ禍、思う存分走りに行く事が出来ず、もどかしい思いですあせる

 

当別荘恒例、春のツーリング始めですが、本年は去る4月初旬(※緊急事態宣言前)に行ってきた、千葉県・旭市へのバイク行を、蔵出しでご覧頂きます。事前の想像以上に様々な顔を持つ街でした。今作は前置きは短めにして^、早速スタートしますDASH!

早朝からやって参りました、↑とある高速のPA車

ここは~

千葉東金道路・野呂PAです駐車場

当別荘、2019~21年の3年間を『初心に返る』シリーズとしています。その最終年となる今年、昨年に続き、上京当初よく走りに来ていた房総を訪ねます。

名の通り、千葉市~東金市を東西に貫く千葉東金道路ですが、これから九十九里浜へ走りたいと思いますカメ

 

松尾横芝ICから一般道へ、もう外房です波

まずは、蓮沼海浜公園を目指します宇宙人

その前に、

途中で道の駅を見かけたので、トイレに寄りますおひなさま

広々とした駐車場、↑道の駅『オライはすぬま』です。

早朝なので、まだお店は開いてませんが、"24時間、無料でトイレと駐車場が使える"というのが道の駅公認の条件なので、こういう時便利です^

(※ちなみに"オライ"とは、当地の言葉で"私の家"です)

ここは千葉県山武市になるんですが、つい近年まで、"蓮沼村"でした。平成の大合併で山武郡中部の4町村が併合し、山武市誕生によって解村しました。

道の駅にあった↑閉村記念碑、碑文によると同村は1889(明治22)年に町村制発足時以来、どことも合併せず歩んできたそうですが、平成大合併により、117年の歴史に終止符を打ったそうです。

駐車場に舟も停まっているオライはすぬまを後に、海へ向います馬

 

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着きました、千葉県立蓮沼海浜公園ですチューリップ黄

↑地図の通り、九十九里浜沿いに延びる、約2km以上に及ぶ長~い公園ですオバケ

各種スポーツ施設が充実、特に夏季はプールが人気との事カエル

又、長い園内を生かして敷かれた↑パークトレインは、この種のミニ鉄道としては日本最長距離(※約2.1km)を誇るそうです新幹線

2キロって、本物の鉄道の1駅間ですよw

 

しかしこの公園の魅力は、果てしなく広がる九十九里浜のほぼ中心にある事波

早速、浜を見に行きます走る人

海への道が途切れた先には~

広大な砂浜が、どこまでも続いています。

日本有数の名景の浜辺、九十九里浜です^波

実は僕上京してきた頃、一番先にバイクで走りたかったのが、この九十九里浜でした。その願いを果たし、Wo号で初めてここへ辿り着いた時の感動は今も忘れられません。あの頃と同じ、雄大な光景を久々に味わい、大満足でしたキラキラ

 

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蓮沼を出て、今作のメイン、旭市へ向かいます。

九十九里浜沿いにつづく街並を、北東へ走りますDASH!

旭市へ入りました!

九十九里浜の北東端にあたる街で、隣は銚子市ですクリップ

 

旭市といえば、近年あった、あの出来事を思い起こすかたもおられると思います。

旭市最初は、その史実を伝える資料館を見学します。

海岸沿い、旭市・飯岡地区にある、いいおか潮騒ホテル家

このホテルに、『旭市防災資料館』が併設されています。

元は国民宿舎だったんですが、民営ホテルに移行したそうです。

その一角を、旭市の資料館が占めています。

この防災資料館の主題ですが、旭市は2011年の東日本大震災の津波において、関東で最大の被害が出た街です。その史実を未来に伝え、教訓とするため、震災後同市が設置しました。

東日本大震災後の津波といえば、宮城や岩手での被害が甚大でしたが、ここ千葉県でも各地で被害がありました。

中でもこの、旭市・飯岡地区は、後述する理由で最大高7.6mの津波が押し寄せ、16名もの方が亡くなられました。

館内に入ってまず目に入るのが、↑の時計。

市内の農協前にあったもので、津波が襲来した時刻、午後5時26分をさしたまま止まっています。

農協のビルは津波によって浸水し、使えなくなりましたが、この時計台は津波の証人として「忘れじの時」と命名され、当館で保存される事になりました。

展示は、当時の被害状況や被災された方々の姿をメインとしつつも、『なぜ旭市で津波の被害が大きくなったのか?』という、津波のメカニズム解説にも重きをおいています。

 

↑図の通り、旭市は、犬吠埼のある銚子市の西隣にあります。

太平洋からは少し引っ込んだ感じにも見え、素人目には津波被害は少なそうにもみえますが、しかし・

被害は、銚子市が比較的少な目だったのに対し、旭市に大きな被害が集中しました。なぜなのか?

詳しくみていきます。

旭市の中でも、本館のある飯岡地区は、↑図右方にある岬の西側、東側(太平洋)から津波が襲来すると、飯岡の西側にある海岸に接岸した津波が再び「反射波」となり飯岡地区へ逆流、太平洋からの後続波と衝突し、さらに波高の急上昇を招いてしまいました。

 

この「反射波」が主因で、津波は越堤して内陸部へ流れ込み、大きな被害をもたらしました。

一瞬にして街が津波によって消えてしまった旭市・飯岡地区、しかも同地区では地震による液状化も発生し、被害が増大してしまいました。

しかも、↑パネルによると、津波は3波に亘って旭へ襲来しました。

第1波(15:50頃)、第2波(16:20頃)、そして一番大きかったのが第3波(17:20頃)でした。

 

第1波のあと、次第に波高は小さくなっていくように感じられたとの事で、その後第2波の時は堤防を越えなかった事から、人々の間に「収束したか」と、一瞬の油断が生まれてしまったそうです。

その間隙を突くように、一番大きな第3波が、一瞬に飯岡を襲いました。

全壊336世帯をはじめ、3000世帯以上が被害をうけ、沢山の方々が市内10ヵ所に設けられた避難所で過ごしました。当時を再現したコーナーも。

↑震災直後の千葉日報を閲覧できます。生々しい記事を読むと、混乱を極めた当時が思い起こされます。

そんな中、被災各県を行幸啓されて励まされた両陛下(※現・上皇ご夫妻)ですが、東北各県への旅に先立って最初に訪問されたのが、ここ、旭市でした。

お顔を近づけて被災された方々と話される両陛下。僕がこれまで見た報道写真には覚えがない程、被災者のかたとの距離が至近です。おそらく同館オリジナルの写真と思われます。

そして、旭市の復興と発展を期して、展示は結ばれていました。

 

記録動画も視聴できるほか、館のかたが丁寧に説明して下さり、大変有意義な見学となりました。東日本大震災では東北だけでなく、首都圏でこんな激甚な災害があった事は決して忘れてならないし、物心両面での備えを怠ってはならないと改めて思いました。

同資料館(潮騒ホテル)には震災後、↑の広幅外階段が新設され、津波避難ビルの機能を付加しました。教訓を現場に生かす、旭市です。

 

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資料館の真ん前、海岸へ出てみます波

サーフィンのメッカでもある九十九里浜、この日もサーファーが波に乗っているのがみられました波

この飯岡海岸にはいくつか目に留まった碑があったので、紹介していきます。

まず↑、津波を記録し伝えるための記念碑。

 

そして、毛色ガラッと変わりますが、↑アノ"あしたのジョー"をかたどった碑も目

旭市は、ちばてつやさんが少年期住んでいたんだそうです。

彼の一家は戦時中朝鮮半島や満州で暮らし、戦後日本へ引き揚げてきた直後に千葉へきたとの事です。

又、浪曲の題目"天保水滸伝"で知られる飯岡助五郎、まさに名の通りこの飯岡で漁業の網元を営みつつ、侠客として地域の治安にも関わった当地の有力者だったとの事うお座

さらに、↑『座頭市発祥の碑』

旭市はアノ、座頭市の物語が生まれた地でもあります。

先程前出の飯岡助五郎の所に、いずこからか流れてきて盃を受けた盲目の侠客の武勇伝ですが、モデルとなった男は作者・子母澤寛が実際に取材した話から物語として書かれたとの事。

数多くTVドラマや映画化された座頭市物語、全くのフィクションではなく、実在した人物をモチーフに書かれた作品だったという事になります映画

 

潮騒ホテルからわずか50m程の範囲で、これだけ数々の碑が立つ飯岡、予備知識なしで訪れたので驚きの連続でしたひらめき電球

 

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見所多かった飯岡海岸を出て、先程資料館の地図で見た、漁港がある岬に展望台があるというので行ってみますDASH!

潮騒ホテルからすぐ、↑岬がみえてきます目

 

漁港のむこうには、テーブルマウンテンのような地形が船

そして、岬の突端には展望台があるのも確認できます目

やって参りましたフラッグ

刑部(ぎょうぶ)岬といいます。

↑の展望台は、"光と風"という洒落た名前がついています星

岬に立つ飯岡灯台ひらめき電球

1956(昭和31)年初点との事。

この灯台がある岬の突端から眺める風景、絶景ですキラキラ

↑北東側、銚子市方面へ目をやれば、屏風ヶ浦と呼ばれる荒々しい断崖が連なる海岸が犬吠埼方面へ、約10kmに亘ってつづきます。崖の高さは40~50m、その光景はイギリス・ドーバーにある断崖を彷彿とさせる事から『東洋のドーバー』とも呼ばれるそうです(※現地解説板による)虹

この刑部岬のある飯岡付近が、九十九里浜の北端にあたります。

そして反対、南東側には、先程走ってきた飯岡海岸や漁港、そして旭の街が一望の下宇宙人

 

この刑部岬、朝日や夕陽は勿論、夜景も美しいとの事で、日本夜景遺産や日本の夕陽・朝日100選にも選ばれる等、数々の名景プライズをほしいままにしている絶景スポットです^グッド!

つづいて↑、↑"展望台 光と風"に登ってみます右上矢印

展望台は3層あり、下から↑の屋内展望台、オープンエア展望台、そして屋上にも上れますとかげ

屋内層に展示してある↑、『飯岡石』

屏風ヶ浦から崩落した岩石が、海流で飯岡の海岸へ流れ着く頃には↑のように丸くなり、当地の人はこれを石垣等に利用してきたとの事。

中には海生生物が穿った穴がある石もあり、その穴に海風が吹き込むと笛のように音が鳴る事から、当地には"天の岩笛"というロマンある名の民話も伝わるという事ですキラキラ

屋内展望室から見る、↑漁港方面宇宙人

雨の日も、ここからならゆっくり眺望できます目

その上層のオープンエア層は、↑な感じ。

展望台名の通り、光と風を感じる空間です^キラキラ

床のタイルは、↑千葉県の形がわんわん

これを見て改めて思いましたが、当別荘で度々訪れる千葉県/房総半島、ホント名所が豊富です宝石ブルー

海風に吹かれながら、しばし旭の光景を眺めました虹

 

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ここから後は、海辺から離れていきますDASH!

昼食はツーリング作恒例の、道の駅でナイフとフォーク

旭市の道の駅、『季楽里(きらり)あさひ』へ。

Wo号初訪問ですが、なかなかの規模ビル

お隣銚子市の、銚子電鉄グッズも販売。

"ぬれ煎餅"はもはや同電鉄の本業です電車

館内には、千葉のお約束^、落花生コーナー合格

ここの名物、飯岡漁港水揚げの魚天ぷら定食を頂きました(※美味)^うお座

ラストは、内陸部へ走ってゆきます霧

旭の旧市街地へ入っていきますカメ

JR旭駅へ寄ります電車

総武本線、千葉駅から約1時間20分程ですヒツジ

小さな駅ですが、市の玄関とあって、特急しおさい号(※東京~銚子間)も停車します黄色い花

 

なお遅ればせながら、旭市の概要ですが、同駅周辺に元々あった旧・旭市をベースに、平成大合併時、先程の飯岡町等の3町が併合して新た"新・旭市"が誕生し、現在に至っていますしっぽフリフリ

 

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本作さいごに、旭市内陸部にある史跡をご覧頂きますカエル

県道を成田方面へしばらく走ると、↑『大原幽学ゆかりの里』と書かれたアーチが虹

大原幽学とはどういう人物なのか?これから訪ねます馬

↑"大原幽学遺跡史跡公園"の大きな看板&駐車場にWo号を停めます。予備知識なく来たんですが、なんか凄そうな予感^しし座

早速見学します男の子

駐車場から史跡まで、田んぼの中を少し歩きます走る人

山すそに近づくと、史跡の範囲となりました。

(※国史跡)

旧宅をはじめ、いくつかの建物と記念館があります。

 

・で、この大原幽学とは、どんな人物だったのか、ですが・

大原幽学(1797-1858)

詳しくは↑の看板を拡大してご覧頂きたいですが(手抜き^)、現在の名古屋市で生まれた幽学は、若い頃は近畿で流浪の生活をおくり、その中で仏教・儒教・神道をとり入れた独特の道徳学・『性学』という学問を開きます。

 

後にこの旭市の一部となる長部村へ招請され、農業指導と性学の普及に当地で務めたとの事本

また、幽学は農業振興にあたり、『先祖株組合』という、現在でいう農協のような組織を設立、こういう組織としては世界初だったそうです。

 

史跡内へ入ります右上矢印

木戸のむこうには~

古民家が一軒・

↑が、幽学が住んでいた旧宅だそうです家

(※国史跡)

しかし、一人物についてのゆかりの地が、これだけ広大な範囲で国史跡に指定されているのは、全国各地訪ねたWoもあまり覚えがありません。幽学が当地に残した『経済の安定と、道徳心を一体とした地域の振興』が高く評価されているに他ならないという事でしょう。

旧宅から一段高い丘には~

↑お堂風の建物がありますが、これは寺社ではありません。

『大原聖殿』と呼ばれ、幽学の死後建てられました。

当初神社として神社本庁へ申請したとの事ですが認可されず、この名になったとの事です。

 

しかし、物事には必ず盛衰があるもので、地域に性学が広まるにつれ、この地に建てられていた『改心楼』という教導所(塾)へ通う農民の動きが活発化。

人の動きには元々ナーバスな幕府に警戒されるところとなり、やがて幽学に反発する勢力が改心楼を襲撃、これを機に幕府は改心楼の取壊しや先祖株組合の解散を命令。

「これまでやってきた事は何だったのか」と失意した幽学はこの翌年(※1858(文久5)年)、明治維新の直前に、文明開化の世をみる事なく、切腹により自らの生涯を閉じました。

 

聖殿のさらに一段上には、大きな古農家が保存されています。

旧林家住宅(※千葉県有形文化財)家

元は別の場所に建っていたそうですが、史跡公園の整備とともに当地へ移築されました。

幽学の指導・監修で建築されたと伝わります。

幕末の房総で一時期花開いた、経済活動と"人としてのモラル"を同時に追求していた先進の農村が、この房総の東端近くにあったという史実に驚きます。

幽学も、まさか後年ここまで再評価されるとは天国で驚いているかもです^キラキラ

史跡内に建つ、↑幽学記念館ですが、残念ながら時間切れで見学できませんでしたあせる

時間がきました。

帰路は東関道からのルートにすべく、成田方面へ走りますDASH!

東関道・大栄ICから高速の人に、帰京の途につきます東京タワー

 

一昨年から3年に亘って企画した、"ツーリング始め・初心に返る"企画でした。最終回の今作は千葉県・旭市を取り上げました。

美しい九十九里の北端の街、そして津波被害を伝え、未来を拓こうとしている風光明媚な街でした。

意外な名所や伝説も豊富で、予想よりずっと充実したバイク行となりました。コロナ収束が未だ見通せない昨今、本年度のツーリング、春季はこれのみになるかもですが、情勢をみながら可能な範囲で走っていこうと思っていますグッド!

 

 

 

 

 

 

(※2023.11 文一部修正)