連日猛暑が続く2011夏、震災復興にあたられている方々には大変な夏と存じます。ご自愛第一に願うものです。
前作までの北海道ツーリングを上梓し終え、少しホッとしている当別荘ですが、真夏の一日、群馬/長野の県境・碓氷峠を歩いてきました。ご覧下さい
現在は"終点"となった横川駅ですが、1997(平成9)年に長野新幹線が開通に伴い、横川~軽井沢間が廃止された事によって、信越線は分断されてしまいました。
今作ではこの区間、『碓氷峠越え』区間の廃線跡を歩いていきたいと思います
折りしも当時(2011)、全国JRでは"群馬キャンペーン"が行われていましたが、横川駅では特にイベントもなく、落ち着いていました^
↑横川駅前です
信越線、かつてはここから補助機関車を連結し、当地・碓氷峠から長野県・軽井沢へ列車が登っていった、"峠越えの駅"でした。
そのため、駅や街自体は小さいんですが、補機解結のため特急列車も全て停車し、ホームは名物の駅弁『峠の釜めし』を求める客で賑わいました
今は昔、駅前は鳥のさえずりが響く静かなローカル駅です
駅舎の背後には、↑妙義山系の独特な岩肌がみえています
現在、横川~軽井沢へは、↑JRバスが連絡していますが本数が少なく、もしこれで信州入りしたい場合は事前に時刻要チェックです
前述の横川名物、峠の釜めしですが、、現在でも横川駅前に店があり、買うことが出来ます。
又、駅からすぐの↑国道18号沿いには本社/工場兼ドライブインがあり、ここでも味わえます
横川駅の西側(※横川機関区の跡地)には、↑JR東日本傍系の財団が『碓氷峠鉄道文化村』を開設していて、かつて信越線で活躍していた車両を中心に、国鉄時代の車両を展示/保存しています
これを実際に体験運転できるコース(※廃線跡を一部利用)があるんですが、この運転には事前講習受講が必要で、Woは今これに挑戦しています^
この鉄道文化村の紹介は別の機会に譲り、今作のテーマはこれから歩く、『信越線・碓氷峠越えの廃線跡』です
現在、廃線跡の一部は遊歩道として整備され、碓氷峠鉄道開通時に敷設されていたアプト式鉄道(※後述)にちなんで、"アプトの道"と名付けられています。
文化村入口横に、↑アプトの道、スタート地点があります
碓氷峠方面へ歩きます
↑鉄道文化村を横目にみながら歩いていくと、アプトの道最初の"名所"、碓井関所跡があります。
↑案内板に誘導され、見学します
アプトの道を少しはずれた、旧街道・中山道沿いに関所の門があります
この碓氷関所、中仙道六十九次の中でも、最も重要な関所とされていました。東海道でいえば箱根や新居と同じような存在だったようです。
↑の関所入口の門、当時の部材を一部使って復元されたとの事です
↑敷地内にある小さな資料室には、通行手形等の貴重な史料が残されています
往時から残っている唯一のものといわれる、↑"おじぎ石"
通行人はこの石に手をつき、ひれ伏して役人の検査をうけたそうです。
↑前述の、EF63運転コースとなっている廃線跡の横を歩きます
アプトの道、これからまだまだ続くんですが、横川駅側から、この後行く峠の森公園までは↑な感じ。まさに廃線跡歩きです
長野新幹線開業に伴い廃線になった信越線、↑複線の線路跡のうち1本を撤去して遊歩道にし、残り1本は存置して、文化村からのトロッコ列車や、EF63体験運転用に使用しています。
現役時代そのままの架線柱が、強い印象をうけます。
↑の写真付近は緩やかな上り坂でしたが、猛暑の中、汗ダラダラで登っていきました
レトロな煉瓦建ての、大き目な建物が
↑丸山変電所跡です(※国重文)
重厚な中にも装飾が施された部分もあり、当時の人々の、日本初の技術にかける心意気が感じられました
なぜ、この古い変電所が国重文に指定されているのか、ここで信越線の歴史を、この横軽区間を中心に少し掘下げてみたいと思います
東京から長野県を経由し新潟県へ至る信越線、1888(明治21)年までには既に、長野/東京の両方向から、ここ碓氷峠の手前まで延びてきていました。
しかし・
この碓氷峠は、天下の険と言われる箱根峠以上の急峻な地形で、当時の機関車の能力では、この急坂を鉄道で越える事は不可能だったんです
しかし、東京~新潟間を鉄路で結ぶという国家的課題を託されていた当時の鉄道省は、なんとしても開通させようと種々検討。ヨーロッパの登山鉄道等で用いられている、2本のレールの間にもう1本、"ラックレール"と呼ばれるギザギザのレールを敷き、そこに機関車側の歯車をかみ合せて登坂する"アプト式"を採用します
アプト式によって登坂可能となる目途がつき、信越線は1893(明治26)年、横軽区間が開通。ついに東京~新潟間が全通しました
ちなみに、現在東京~新潟間を最も短絡するのは上越線ですが、同線は碓氷峠以上に深大な三国山脈がネックとなり、清水トンネル等の長大トンネルの建設が明治期の技術では困難だったので、全通は1931(昭和6)年までかかっています。それまではこの碓氷峠が、首都圏と日本海側を結ぶ大動脈として重要だったんです
横川~軽井沢間、約11kmの碓氷峠越え区間に18の橋と26のトンネルを建設。その上66.7‰(パーミル)という全国一の急勾配という我が国鉄道でも一番の難所で、当初SLで運転されましたが煤煙が物凄く、体を壊す乗務員が相次ぎ、客室内へも煤煙が充満。大変な状態だったそうです
そこで鉄道省では、都市部以外では日本初となる電化工事を横軽区間に施す事を決定。
その時建てられたのが、↑の丸山変電所です。
1912(明治45)年、横軽区間の電化が完成。
輸入した電気機関車が走り始めました(※しかしこの初代電機は故障が多く大変だったようです)
戦後、技術の進歩でアプト式の歯車が不要になり、前述のEF63補助による粘着運転(※通常の車輪による運転)が始まったのは、1963(昭和38)年の事でした。東海道新幹線開業の前年です
↑建物から送電線が出ていた穴が残っています
鉄道電化草創期の遺構が現存する全国で数少ない場所でもあり、貴重な産業遺産として往時の苦闘を伝えています
丸山変電所の向かいには↑トロッコ列車の駅もあるんですが、トロッコ列車は機関車の不調のため(※2011.8現在)運休中でした
廃線跡には↑な看板も見つけました
山間部の鉄路をチェックするための保線担当者用注意書です。
前述の通り、廃止されたのが1993年とまだ近年のため、先程の架線柱をはじめ、現役時代の面影があちこちに見られます。廃線跡ファンにはたまらないと思いますw
線路脇につづいてきた"アプトの道"ですが、丸山変電所からしばらく上ったところで、線路から少し離れてみます。
建物にはレストランや"峠の湯(天然温泉)"があって、鉄道文化むらを運営している碓氷峠交流記念財団が、同所も運営しています
ここのレストランで昼食にします
一般メニューのほか、峠の釜めしもあります
(※↑の木箱は実際の納品荷物ではなく、PR用のダミーですw)
前出の"トロッコ列車"ですが、ここ↑峠の森公園が終点になっています。でも前述の通り、2011現在運休中なので、線路は寂しく錆びています
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アプトの道、後半に入っていきますが、実はここから先が本番です^
峠の森公園より上は、先程までの1993年廃止の信越線跡でなく、1963年のアプト式廃止に伴ってルート変更された旧線、つまり開業当初のアプト式線路の跡を遊歩道にしています。
まさに"アプトの道"なんです
これ以降ご覧頂く、明治時代のトンネルや橋等は、大変貴重な鉄道遺産です
先程同線の歴史のところでふれましたが、横川~軽井沢間約11kmの間に橋18ヶ所、トンネル26ヶ所もつくって峠越えしていた横軽区間、これから歩いて実感します
まず現れたのが、↑明治期建設のトンネル
アプトの道は、トンネルの中へとつづいています
コンクリートでなく、↑煉瓦が巻かれたトンネル壁。時代を感じます。
外は猛暑の一日でしたが、トンネルの中は寒い位に涼しく、出たくないほど快適でした^
アプトの道は、碓氷峠を越える国道18号と並行しつつ登ってゆきます
↑から、遊歩道を外れて少し国道を歩きます。
それには理由があります。
その理由とは~
↑を見るためです。
碓氷第三橋梁、通称"めがね橋"です
アプトの道で最大の見所と言われています
アプトの道は、めがね橋の上そのものを通っているため、橋全体を俯瞰するには、一旦国道へ下りる必要があります^
めがね橋、↑近くで見ると、ホント大迫力でした
名の通り、めがね形アーチの美しさが印象的です
1893(明治23)年竣工。
当時の技術の粋を集め、日本の動脈は築かれました
先般惜しくも架け替えられた兵庫県の餘部鉄橋(※山陰線)とともに、明治期鉄道橋梁の傑作といわれています
先程の丸山変電所と同様、『碓氷峠の鉄道遺産』として、国重文に指定されています
長さ91m、高低差31mとの事です。
↑下から見ると、大きな高低差がよくわかります
国道からアプトの道へ戻り、次はめがね橋の上を歩きます
特に夏、半ズボンや短い靴下は碓氷峠では要注意との事です。
単線線路の幅そのものです。
このめがね橋が、アプトの道遊歩道の終点(※折返し点 2011年現在)になっています
↑は、めがね橋の向かい側、さらにトンネルが見えますが、現在ここから先へは入れません。将来的には整備してさらに遊歩道を延伸する計画もあるそうですが、2011現在は未だ通行止でした。
なお↑のトンネルは、反対側との標高差が100m近くあるとの事で、坑口から物凄く涼しい風がサァ~っと吹いてきます。まさに天然のクーラーでしたw^
先程歩いた国道18号が、はるか下に見えます
再びめがね橋を渡り、横川へと戻っていきます
めがね橋の真ん中あたりから、国道側を見ると↑な感じ
高所恐怖症のかたには無理かも
一方、国道と反対側(※北側)を見ると、↑廃止になった信越線の鉄橋が見えます。
繰り返しですが1993年まで現役路線だったので、まだ古さは感じられず、架線も張られたままで、今にも"特急あさま"が走ってきそうな感じがしました
現在の碓氷峠越えランナー・長野(北陸)新幹線は、↑よりさらに北側、新設された長いトンネルの中を走っています
ホント、思い出に残る美しい碓氷峠でした
再び明治のトンネルを楽しみながら、横川駅へ戻ります
道端で見つけた、↑"工"マーク
国鉄時代まで使われていた、鉄道用地を示す境界標です。
明治初年、鉄道を司る役所が"工部省"で、その"工"を使ったのが起源らしいんですが、工の字がレールの断面のようでシンプルでわかりやすく、JRになった現在に至るまで約150年使い続けているとの事。現在でも地方路線の一部でみられます
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途中から、アプトの道を外れて国道を通り、中山道69次の宿場、坂本宿を歩いてみます
江戸時代には旅館約40軒、本陣もある大きな宿場だったらしいんですが、今では宿場町の面影も少なく、一般の住宅街の佇まいです
しかし、各家玄関の軒先には宿だった当時の屋号が掲げられ、往時の面影をわずかに残しています
坂本宿は明治になり、碓井関所の廃止や信越線の開通で寂れていったといいます。
↑の軽四輪が停めてある家、かつて若山牧水も一夜の宿をとった"つたや"だったとの事ですが、現在は一般民家となっているようです。
背後に控える妙義山系の↑雄大な稜線は、江戸時代と変わらない光景です
横川の街に戻ってきました
駅で待っていたのは↑国鉄型、懐かしい湘南色の115系
峠越えの要衝として沢山の旅客で賑わっていた横川駅。
今は、人影まばらなホームに電車モーター音のうなりだけが響きます。
↑柱の"高崎・上野方面"の古い案内板、国鉄時代を彷彿とさせます。現在は横川駅から上野への直行列車は無く、全て高崎駅で乗り換えです。
懐かしのボックスシートが並ぶ車内、旅のおわりを国鉄型で楽しみつつ、帰途につきます
日本鉄道史に残る難所に、先人たちが挑んだ遺構が現存する碓氷峠。当地で試行錯誤して培われた技術は現在、全国の山間部の鉄路に生かされています。
この歴史ある横軽区間は、新幹線開業により廃止されてしまいましたが、軽井沢~篠ノ井間は並行在来線分離により『しなの鉄道』として新発足しました。
以上、夏の碓氷峠で過ごした一日でございました^
(※2022.5 2024.2 文一部修正)