はじめに
こにゃんちは、まるこです
先日日本史の磯田先生先生の講演会「群馬で歴史を語る」に出かけてきました
講演会で聞いて書き留めたメモをほぼそのまま記事として書いています
興味ある方どうぞご査収ください
このページは後編になります。
前編はこちら
それでは前編に続いて後編始めます
金井東裏遺跡(群馬県渋川市)の王の家族
古墳時代に馬を飼っていた王とその家族が生き埋めの状態で金井東裏遺跡から出土した。
平成24年に発見されたこの王の家族は、王と妻と娘と小さな息子と見られている。
当時、榛名山は噴火が続き、周辺住民はみな避難していたとみられるが、王の家族と馬1頭だけは残って(避難せずに/避難出来ずに)埋まってしまった。
3度目の噴火の火砕流に飲み込まれたようだ。他の住民は逃げられていることから、王の家族は敢えて残っていたようにも見え、地の神に祈っていたのかもしれない。
発掘後、歯の分析が行われストロンチウムが測られた。ストロンチウムの比率を見るとどの水を飲んだかが分かる。結果、王は稲田(馬を作っていた地域)の人だったことが分かった。
一緒に出土した鎧は百済式のものと見られ、このタイプの鎧は世界にこれを含めて2点しか出土例がない。つまり、この王は稲田からやって来た朝鮮出身者かと思われる。
復元した顔は朝鮮系の顔立ちで佐野史郎っぽい感じ。妻の顔は在来の人の顔立ちで、おそらくけぬの王の娘と思われる。子供たちは榛名で生まれ育ったとみられる。
ここからも分かるように、内陸のかみつけに大陸文化が入って来たのは馬がいたから。馬が作れる(育てられる)火山灰の場所には渡来系と在来系が交じり、馬が大陸文化をつなげていたとも言えそうだ。
年号と上毛三碑
かつて日本で使われていた元号は、最も古い時代で干支のみの表記になっていて、次に中国の元号、さらにのちは中国の出典から、そして今回令和で初めて日本の出典(万葉集)から制定された。
下野の那須国造碑には「永昌元年」と則天武后の時代に使われた年号が書かれている。これは中国の年号を引用している。
けぬの古い碑文には朝鮮の影響がみられる。日本で18個現存するが、そのうちの3つが群馬にある(上毛三碑)
上毛三碑:その1「山ノ上碑」
山の上碑は日本最古の墓誌(ぼし)。
年号の記載は「辛巳歳」とあり、681年のこと。この頃はまだ干支で表していた。
上毛三碑:その2「多胡碑」
最古の楷書体。年号は和同4年。
政府からの命令が書かれている。弁官局からの命令で。「〇、〇、〇(←メモしきれなかったけどすべて地名)の3郡から300戸分けて新しく郡を作って羊(よう)さんに支配を任せる」旨が書かれている。
羊さんはおそらく渡来系と思われる。
ちょっと寄り道:羊羹(ようかん)が羊のわけ
周の時代の中国の暮らし方マニュアルなんちゃ~ら(←聞き取れなかった)によると、生贄を出してまつることが親孝行と考えられていた。生贄とは羊の肉のこと。だから中国の人が日本に来るときに羊を持ってきたかったけど、日本では気候が合わず(高温?多湿すぎる?)病気になってみんな死んでしまう、だから生贄に出来ず困っていた。
そこで禅僧が考えた。生贄の羊の代わりに赤いようかんを作ってまつろう、と。そんな理由から羊羹は「羊」の字を使う。
余談ですが…
羊はそれだけ尊く大切な存在。羊が大きいと書けば美しい、とか、漢字を見てもそうした文化がうかがえる。
だから、多胡碑に書かれた新たな群の統治を任された羊さんは渡来系ではないかと推測できるし、そんな尊い感じを使えるのだから結構高めの身分だったのではということまで想像できる。
上毛三碑:その3「金井沢碑」
古い隷書体。
なんとこの碑(大きめの石)、碑文であることが発見されるまで農家の洗濯板として使われていたそうな
内容は先祖供養。
この文の中に仏教信仰も見られ、仏教の広まりを見ることができる。
磯田先生が考える日本人の宗教観
日本人の仏教徒が崇める「ほとけさま」とは、釈迦のことではなく「ホトケさまになったご先祖様」であって、仏教は先祖をまつるための理由立てに過ぎないのではないかと。
この考えが成立したのは1700年代ころからで、一般的な庶民階級の人々でも墓地と墓石を持っていた。
しかし、300年経った今、「家」の墓がなくなりつつある。廃墓・墓じまいが進んでいる。”長男が継いでいく「家」制度”の考え方が変わってきたようで、何とかして「家」を守り継いでいかなければならないという考えが薄れてきているようだ。今はまさに時代の転換点。
新田義貞の分家から徳川家は出たのか
(”新田義貞の分家から徳川家は出たのではないか”という説があるが、磯田先生は違うと思っているそう。)
家康の松平家は安祥松平氏といって、全国に18ある松平家の1つに過ぎない。
この、安祥松平氏の最初の人は親氏(ちかうじ)といい、親氏を名乗る以前の名を徳阿弥といった。
徳阿弥は太田世良田(群馬県太田市)から出て三河徳川郷に入った者で、もともと新田の親戚という話がある。
親氏は新田源氏世良田氏の末裔とされる。徳阿弥と称する時宗の僧侶として諸国を流浪し、三河の松平郷の松平太郎左衛門の婿養子に入ったとされる(諸説あり)。
踊念仏
ところでその徳阿弥は踊念仏をする僧侶だったが、当時の踊念仏は今でいうロックライブのような雰囲気で、相当な盛り上がりだったようだ
集団で踊りながら念仏を唱える僧侶たちを囲むように女性たち(観客・ファン)が集まって筒のような入れ物を手に「しっこーーしっこーーーーー
」(だったかな?)と叫ぶと僧侶がおしっこをかけてくるので、それを女性たちは筒に受けて持って帰ったり、興奮しすぎて失神する人もいたとか。
(この話は磯田先生が調べた文献ではなく、大学のご友人だかが見た資料に書いてあったと聞いた話なのだそうですなかなかにとがったエピソード
)
徳阿弥はどこから来たか
徳阿弥がある者に出身を聞かれたとき「徳阿弥は熊野の鈴木だか在原だか分からない」と答えている(熊野は比丘尼派遣業、在原は在原業平のこと)。つまりここでは「得川(昔は「得」の字)」とは名乗っていないため、磯田先生は徳川が群馬出身だという話があるがそれは違うのではと疑っている。
井伊直政と箕輪城
箕輪城は高崎と前橋の間にある。高崎―前橋間は交通の要所であり、そうした土地には軍隊を置くもの。交通の要所に軍隊があればどこから攻められても守りやすく、またすぐにどこにでも派遣しやすい。
家康の時代、特に家康に可愛がられて重要な箕輪城をあてがわれて箕輪城主となったのは井伊直政。
直政はとにかく真面目だった。それが分かるエピソードとして、戦いの途中皆で神社の赤飯を盗み食いしたときに直政だけ食べなかった。
その理由がとても忠義に徹したものだったので、そうした姿勢を見た家康は彼を信頼し重用したのかも。とにかく人が好い。
(その理由ですがちゃんと覚えてないんだけど、主人の死後にこの盗み食いが原因で主人が地獄に落ちるようなことがあったらいけないから、閻魔様に言い訳して主人が地獄落ちを逃れられるように自分だけは盗み食いするわけにはいかない…みたいなことを言っていた、とのこと。)
徳川埋蔵金の話の出どころ
糸井重里氏がやたら追い続けていた「いい穴だ」でおなじみ徳川埋蔵金。
この話の出どころは権田村の小栗上野介忠順。
小栗上野介忠順はもとは幕臣だったが、重用されていた井伊直弼が殺され小栗も職を解かれた。そこで江戸を離れて与えられていた土地の一つだった権田村(現・群馬県高崎市)で隠居生活に入ったのだが…
小栗が幕府の仕事で稼いだお金を貯め込んでいたという噂が書かれた古文書が発見されている。それが徳川埋蔵金としてみなの知るところとなっている。
しかしその古文書によれば”小栗は二分金(金の含有量が低い)を小さな酒樽に貯めていた”ということなので、もし見つかったとしても大した価値ではない。
終わり
以上、磯田先生の「群馬で歴史を語る」講演会の内容メモでした。
読み物になっていなくてすみません
簡単に感想を
今回講演会に行って90分のご講義受けましたが、めっちゃ面白かったです
私、もともと日本史得意じゃない(てゆーか嫌いじゃないけど中学高校の歴史ってただ暗記する科目だったから、苦痛だった)からどうかなと思ってたけど…自分が住んでる地域に大昔に住んでいた人たちに思いを巡らせるロマンもわくわくするし、ただ知らなかったことを知るってだけでも楽しい。新たな知識によって今まで理解できなかったことが腑に落ちることもあるからね。
あと、磯田先生のお話の好きなところは”学んだ歴史や記録を今の暮らしにどう生かすか、どう取り入れるか”という面があることです。それは勝者の歴史から学ぶこともあるけど、敗者や影になってしまったものを反面教師として学ぶ方が多いかもしれません。
…
またいろんな講演会や勉強会に行ってみたいと思いました
11月には渋沢栄一を知る講演会があるので行こうかなと悩み中
…
ところでまるこが磯田先生を好きなのは「英雄たちの選択(毎週水曜20時~BSプレミアム)」が好きだからなんだけど…その番組は毎週歴史上の人物を一人取り上げて彼らの人生の重要な選択についていろんな分野の専門家を招いてあーでもないこーでもない言ってるのを見ながら楽しく学べるTVショーです。
日本史苦手なまるこでもなんか面白くていつも見てるの
どんな分野でもその道のスペシャリストのおじさん(すごい先生)がテンション上がってキャッキャしながら嬉しそうにしゃべってるの見るの好きなんだよね
最後にまるこから大切なお知らせ
どさくさにまぎれて宣伝すみません。
まるこは「ストーリーを身にまとう」をコンセプトにハンドメイドアクセサリーを制作・ときどき販売しています
こちらからごらんください
最後までお読みくださりありがとうございました