こんにちは、まるこですニコ

 

今回は高崎市美術館で見た展覧会について書いていきたいと思いますアップ

 

その展覧会は、現在開催中(~2018.3.25)の鶴岡政男生誕110年特集展示「逃がすな。人、鶴岡政男」です

 

興味ある方、どうぞ最後までお付き合いくださいニコ

鶴岡政男(1907~79)とは

群馬県高崎市出身。人間の根源を極限まで追求した独自の画風を展開。

「事ではなく物を描く」という主張は、画壇に衝撃を与えた。昭和を代表する画家。(ウィキ参照)」

 

7歳の時(1914)、母が離婚。(実は母は実母ではないという説もあり、鶴岡のアイデンティティへの揺らぎ、女性への願望の源とも言えるのではないかと指摘する人もいる)

20歳の時(1927)、騎兵隊入隊。馬に蹴られて入院、兵役免除される。

30歳の時(1937)、再び召集され赴いた中国大陸で戦争の非人間性に悩まされた。兵役から解除されても生活のために絵を描くことはしなかった。そんな鶴岡を井上長三郎が新人画会に誘った。

 
昭和を代表する日本人画家 松本峻介や靉光らと親しかった。(この二人は若くして亡くなっている。松本は36歳で結核により死去。靉光は38歳で終戦を迎えた直後戦地にて感染症により死去。)
 
「戦争の非人間性を経てヒューマニズムとリアリズムが同時代の課題だったが、足元の生活から再出発した鶴岡にとっては、映すだけのリアリズムではなく「生命の裏打ちを持った」リアリティこそが主題だった。(展覧会パンフレットより)」

 

1962年頃、新宿にたむろしていたヒッピーたちと積極的に交流した。

当時、鶴岡は打楽器(コンガ)の演奏にはまっていた。

音楽やダンスはパステル画へ投影された。(61~70年、集中してパステル画を描いた)

(鶴岡は”パステル画は手遊び”と言っていたが、喘息持ちだったため描くときに粉が舞ったり吸い込んだりすることもあるパステル画は負担はあったはずだ。実際70歳のとき肺真菌症で入院、72歳でがんのため死去。死後の解剖では、肺から金属が検出されたがパステル由来と推測された、とさ。)

 

60年代からは絵にならないものを描こうとした

技法や画材を変えることで、タッチも構図も変化し続けた。同じ構図をパステル画と油彩で繰り返し描くのは”イメージを更新し続けるため”だった。

 

特に64年以降の油彩は、情をタッチに込めるのではなく、イメージのみで想念を”絵にならないものを”描こうとした。

展覧会を見て

さまざまな実験・さまざまな絵

展覧会を通して、本当に一人の人が描いたのかと不思議に思うほどさまざまな方法でさまざまな表現を試みた過程を見ることが出来ました。

 

ちょっと変わってるなと思ったのは、ガラスに描いた油彩画でした。

なぜ敢えてのガラスなのかは分からないけど、板に描いたのと見た目は変わらないように私には思えました。ちなみに、ガラスに描いた小品シリーズは近所で幼子を亡くしたおっちゃんから「香典返しに絵を描いて欲しい」と依頼されて描いたものだったのですが、依頼主が惜しくなってそのほとんどを手元に残しておいたそうです。

それ読んで心の中でリトルまるこが全力で突っ込んだよにやり笑っちゃう。なんか、子ども亡くして近所のおっちゃんも可哀そうなんだけど…それとこれとは別、みたいな感じ嫌いじゃないよイヒ

 

また、点描のようなスケッチがあったり、キュビスムを意識したと思われる油彩や、エッシャーのような”矛盾をはらむ”構図があったり、ダリのようなシュールレアリスムを思わせる世界観もありました。

さらに、立体作品も手掛けていたし、同じ構図でパステル画と油彩画を描くという実験も試みていました。

印象的な言葉

展覧会を通して、彼の独特な言葉の表現に惹かれました。

そのいくつかをご紹介します。

 

「描くということが何か愛撫にも似て…」

鶴岡がパステル画を語る際、「描くという行為が何か愛撫することにも似てデリケートである」と言っていたそうです。

 

パステルというのはチョークのような画材で、直接描くことも出来るけど、削って粉にして指で紙にこすりつけたりぼかりたりして使うのだそうですが、その行為が”愛撫のようだ”と表現しています。

 

私も頭の中でパステルを使って指で紙に熱情込めて描いてみようと想像してみました。

 

私の頭の中にある 表現したいものを 

愛を込めて 自分の魂を紙に移すように 

優しく境界をやわらげて 色を重ねていく… 

 

鶴岡の言う”愛撫にも似て”ということが少し共感できたような気がします。

 

「いつやめるかが問題なんだ」

「いつやめるかが問題なんだ」という鶴岡の言葉は、最後のタッチが分からなければいい絵は描けないという信条の素直な独白として捉えられます。

 

私が引っかかったのは、同様の記述をゴッホも残していたような記憶があったからです。

ゴッホもまた何をもってタブロー(完成品)とするかは深く考察していたようで、ゴッホの場合は自身がタブローとみなした作品にだけ”フィンセント”とサインを記しています。(確かタブローとみなした作品はそれほど多くない…とか書いてある本を読んだような気がしますが確かではありません。)

 

次の一筆を加えることも可能だけど、それをしないで「ここで終わり」とするタイミングを逃さないように、ということなのだと思いますが、一方でダ・ヴィンチの《モナ・リザ》やロダンの《地獄の門》のようにおそらく本人たちはタブローとみなしていないという作品も世には存在します。”死ぬまで手を加え続けていたパターン”のやつです。

 

私の勝手な推測ですが、そういうのって芸術家本人がゴールを設定していなくて(設定できなくて)、ここまで出来たら完成という基準がなくなっちゃってたのではないかと思います。ディスっているのではなく、彼らは手を加え続けることで今よりより高い完成度を目指していたのでしょうね。想定したゴールが自分の力量のはるか先にあったのかもしれません。

 

気に入りすぎて手放したくなくて「まだ完成してない」と言い張っていた説もあるとかないとか…

 
…話逸れちゃった。鶴岡に戻りますぶー

 

「…その矛盾を絵にしました。」

《落下する人体》についてのインタビューの中で 「空襲が花火のように美しいという感じと、美しいと感じた自分の残酷さ。その矛盾を絵にしました。」と言っていました。

 

私もその光景を想像してみました。

 

芸術家として人間として遠くの”花火”を美しいと感じた…のだが、それは花火ではなく空襲であり…空襲ということはその花火の下にいる人たちは恐怖や不安や火の手に包まれ、死の影 に怯え、身近な人の死を前に茫然とする…という光景が広がているはずだ。 

それなのに花火のように美しいなどと思ってしまった。なんて自分は残酷なんだ。 

 

…っていう感じかな。

 

自分で自分の残酷さを認めるというのは強い人だなと思いました。

一瞬そう思っても思ってないこと(自分の感覚を抑圧したりなかったことにする)にしようとしないで、自分の残酷さを認めるには強さがいるんだろうなと。

その自分の残酷さや辻褄の合わない自己を芸術へと昇華させてしまうところは”芸術家”だなと思います。

 

「青い馬が見える…」

生前、鶴岡はまるで自画像のように馬を描いてきました。

ある人が鶴岡の描く馬を見て「先生の顔に似てますね」と指摘した時、本人はそれを認めたそうなので確かに彼は馬を自身と同一視している傾向があったようです。

 

そんな鶴岡は、息を引き取る直前、妻に青色の絵具を求め、「青い馬が見える。走ってくる。」とつぶやいたのだそうです。

 

それが比喩なのか、本当に彼には見えたのかはもはや分かりませんが…自己と同一視していた存在(馬)が死の間際に青い姿でやってくるなんて興味深いエピソードだなと感じました。

印象的な絵

続いて、特に印象に残っている3点について語ります。

 

《夜の群像》

頭のない数人の体の一部がそれぞれ重なり合いながらうごめく絵で、友人・松本峻介の死後、松本の下絵に描いたとされています。

 

この絵を見て、「この部分はこの人のお尻かな…」と思ってたどると乳首がついていたり、「ここから腕が始まるのかな…」と思ったらそうではない、という混沌や矛盾に満ちた世界を感じました。

 

エッシャーの描くだまし絵のようだと思いましたが、矛盾と共に不快感や、予想や期待を裏切られる不安も感じるような一枚でした。

 

《朝のみづうみ(磐梯山風景)》

写実に基づいて描かれたような風景画なのですが、彼岸のイメージとみられています。

 

1964年の恐山旅行が鶴岡に強く彼岸を意識させたことが知られているそうです。

供養・鎮魂という目的が抽象化を避けたのかもしれません。

 

死者への供養を目的とした世界観が決して楽園のような景色ではないのに、物悲しいような静かな景色なのにそれが逆に落ち着くというか、魂が静まるような慰められるような…ベックリン《死の島》を彷彿とさせる雰囲気を感じました。

 

《MEDO》

馬の肛門を抽象的に描いた大きな油彩画。

 

これは、一見何が描いてあるか分からない一枚なのですが…説明読んだら読んだで「なんで馬の肛門をこんなに真正面から大きく描いたのか」とプチパニックを起こしましたアセアセ

 

どうやら兵役中に馬に蹴られた時の印象が強く影響しているようなのですが…自虐ネタなのかな!?どこからどう見た景色なのかと色々と想像していたら面白くなってきちゃった一枚でしたにやり

衝撃エピソード

かなりびっくりというか衝撃というか…え~~アセアセ!?ってドン引きしたエピソードがあったのでご紹介します。

 

1961年 東京テレビ(現TBS)のとある美術番組に鶴岡が出演した話なのですが…

 

番組名は「美術サロン 心の真相を探る 幻覚剤(LSD)による美術実験」

…この時点でかなり怪しいぶー

 

番組の中では鶴岡は実際にLSDを注射し、幻覚や沸きあがるイメージをつぶやき、時に打楽器を演奏しながら絵を描いた…らしいです。やばいねアセアセ 

 

放送倫理とかコンプライアンスの遵守という概念がない時代なんでしょうけど、なかなか衝撃的です。

そのテレビ放送めっちゃ気になりますよね、見たいわ~イヒ

全体の感想

今回観た展覧会はものすごく力を感じました。それが鶴岡の絵の力なのか、言葉の力なのか、展覧会を主催・運営している人たちの力なのか…。

 

特に鶴岡の言葉が好きだなと思いました。

小説家か哲学者かのような言い回しに惹かれました。時々ちょっと何言ってるか分からない時もあるけどぶー

 

でも考えてみると、こうした言葉は理解できたと感じたことでも、彼の真意を本当に理解できているのかは分からないなと思えてきました。結局私の狭い世界の中で共感できた部分でしか受け取れていないのであって、私の曖昧なものさしで解釈しているにすぎないのではないかと。

 

また、先日桐生市の大川美術館に行った時にも感じたことなのですが、1930~50年代に青年期を過ごした世代の芸術家たちは必ずそれぞれ戦争体験を持っていて、その戦争体験が少なからず創作活動の源となっています。

鶴岡の場合も、戦争によって親友を次々亡くし、戦地で見た人間の非人間性に大きく揺さぶられ、戦地にて自分を蹴った馬を自己と同一視してみたり、戦争によって肌で感じた矛盾や混沌をぶつけてみたり…表現の源に戦争が深くかかわっているなと痛感しました。

 

あ、そうそうひらめき電球会場でもらえるパンフレット(A4サイズで8ページ)がすごく読みごたえがあって素晴らしいと思いました笑い泣きアップこのボリュームは完全保存版だね!!そだねーキラキラ

おわりに

以上。

最後までお読みいただきありがとうございましたニコ

こちらの展覧会、何がすごいってチケット代が100円なの。すごくないおーっ!!?

100円でまるまる2時間滞在しちゃったよクラッカー(自分でもそれは長いと思う。めっちゃ疲れたもんえーん

それくらい力のある魂揺さぶられる系の展覧会でした恋の矢

 

出来ればもう一度行きたいな~ラブラブ

3月25日までビックリマーク高崎駅からすぐです!!

 

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