「学級PTA」論への疑問 (その1 学校(担任)主催の保護者会ではなぜいけないのか) | まるおの雑記帳  - 加藤薫(日本語・日本文化論)のブログ -

「学級PTA」論への疑問 (その1 学校(担任)主催の保護者会ではなぜいけないのか)

>「たぬ子の哲学ノート」(http://tanuko418.exblog.jp/10683493/)でも取り上げられている川端裕人さんの「学級PTA」をめぐる発言について考えてみたい。
川端さんのPTA論には共感するところ、教えられるところ多大であるが、すべてに共感できるわけではない。
今回は、その合点の行かないところを率直に述べてみたい。
現状のPTAが病めるものであることは、今や誰の目にも明らかになってきたと思う。
問題は、「では、こんなPTAをどうすればいいのか?」だ。
川端PTA論に対する率直な疑問の提示が問題解決の「足し」にわずかでもなればと思っている。

川端さんは、「日本教育新聞」(4/6)のインタビュー記事において、PTA問題に対する現実的な処方箋として次のような提案をしている。
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(「保護者を追い詰めて子どもにまでしわ寄せがいくような活動は、限界に来ています。」と、現状のPTAの危機的状況を指摘した上で)
もっとも今、声高に任意加入であることを徹底すべきと述べることが、問題解決への最短距離かどうかは分かりません。「PTAが崩壊してしまう」と怖がる人もPTAの中枢には多いのです。
 そこで、もう少し手を付けやすい第一歩として、提案があります。各学級、学年で活動する学年・学級委員会のようなものはしっかり維持し、他の委員会・専門部は、クラスごとに〇人と義務的に選ぶことをやめるのです。
 学級PTAは、保護者同士が学び合い、育つ場です。クラス単位の懇談会、懇親会は、保護者が多様性に触れる機会ですし、どんな話題が出るにしても何かを得て家庭に持ち帰ることでしょう。クラスの問題を共に解決しようとする中で保護者同士、また、教師との信頼関係を深めるPTAの本質的な部分を担っています。
 一方、多くのPTAには、広報紙を発行する委員会、講演会を開催する委員会などがあります。それぞれ重要な業務ですが、「やりたい人がいないなら今年はお休み」くらいの覚悟をすること。広報紙や講演会がなくても、子どもたちは不幸になりませんし、義務でなければ、逆に「じゃあ、わたしが」と言ってくれる人もいるものです。「ボランティア制度」として、委員会や専門部をボランティアに切り替えるPTAの事例もあります。義務としてではなく、自発意思での活動を増やすことが、保護者の成熟とPTAの問題の解決につながると期待します。
(以下、略)
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今回の記事での川端さんのロジックは、全員参加の部分は大きくは触らずに、PTA活動をだれにとっても必要なものに絞り込むことによってPTA問題を解決しようとするものとわたしは理解した。
理想を振りかざしても悩ましい現実は動かない。少しでも「PTAが保護者を追い詰める負担の構図」の解消を図りたい。このような氏の問題意識はわたしなりに理解し、共有もしているつもりなのだが、PTAの「本質的な部分を担う」ものとして、「学級PTA」を前面に押し出す点に関しては理解しがたいところがある。

そもそも、「学級PTA」とは、学校主催の保護者会とどこで線引きされるのだろうか?
学校主催の保護者会があれば、それで十分ではないか。それでは何が足りないというのだろう? そのような素朴な疑問を禁じえないのだ。

自身の体験に照らし、各学期の節目の学級保護者会は参加する必要性も、意義も強く感じられるものだった。先生がクラスの運営方針や子ども達の様子を話し、そのあと、先生の司会進行で、各保護者が簡単な自己紹介と家庭での子どもの様子を語る。保護者が家での子どもの様子を語るとき、先生から学校での様子を踏まえた適切な助言がなされたりもした。とても有意義かつ楽しいものだった。
子どもの担任の先生や同級生の親御さんと顔の見える関係になっておくことは、なにかトラブったときのためにも必要なことだ。

「学級PTA」を基本に据えることは必ずしも全員加入を意味しないと、川端さんは言うのかもしれない。しかし、わたしにはそのロジックはどうにも理解しがたいのだ。保護者と担任、保護者と保護者が話し合い、連携をする大切な場所を、「学級PTA」という形でPTAが押さえてしまったら、教師も保護者もPTAに参加しないという選択は事実上取れなくなってしまうではないか。

「いや、学級PTAと担任(学校)主導の学級保護者会とは違うのだ」と川端さんは言うかもしれないが、いったい両者はどこで線引きされると言うのだろうか? わたしには見当がつかないし、川端さんのこれまでの主張を読んでもはっきりしない。
というよりも、川端さんが「学級PTA」でやるべきこととしてあげていること(保護者と担任の話し合い、連携)は、本来「学級保護者会」でなされるべきことではないのか。
注:「学級PTA」についての氏による定義的な説明を紹介しておく。
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クラス単位で保護者と教師が話し合い、クラスの問題、家庭教育上の問題など、意見を出し合えるような場があれば、クラスは「強く」なる。
話し合いを通じて互いに理解し、信頼し合う大人たちの存在が、子どもたちに良い影響を与えないはずがない。(「PTA進化論⑤」)
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実は、氏は、その著書や雑誌連載の中で、「学級保護者会」と「学級PTA」はしっかり線引きすべきだとも言うのだが(『PTA再活用論』一章-2「基本は学級PTA」)、では、両者の活動はどこで線引きされるのかははっきりと述べられていない。わたしの認識不足かもしれないが、氏自身の中でも、両者の区別は明瞭につけられていないのではないだろうか。

「学級保護者会」と「学級PTA」(「保護者会」と「PTA」)の線引きのあいまいさこそ、PTA問題の「諸悪の根源」ではないかと、私は思っている。
「保護者会」との線引きの曖昧なままでの「学級PTA」の充実は、この問題の構造をより強固なものにしてしまいかねないと危惧されるのである。


川端さんは、一方で、常々PTAの任意性を強く主張されている。そして、その一方で「学級PTA」の充実を説く。現実は一筋縄ではいかないものだとしても、これは、非常に分かりにくい議論だと思う。
川端さんのロジックでは、「任意」と言っても、真の任意ではなく、「変わり者は深追いしない」という限りでの、いわば「似非任意」になってしまうのではないだろうか。
そう。現状のPTAと同様に。
(現状のPTAとて、明確な意思表示をすれば入会しないことも退会することもできるはずだから、任意と言えば任意だ。)