「復興的狂詩曲」


色々な活動期を経て今は脳内が復興活動で賑わっております。


少し前は仮死状態に近しい状態で、その後少し活発になったんですけど、その活動してる個々の意思は弱々しく、まるでシャボン玉の泡のようでありましたが、今はもう少し個々が意志を持ちエネルギッシュな気配を感じています。



最近スペースに入ったり開いたりしてますが、これは寂しさ故の行動ではなくて本の世界に浸っていることからのグラウディング的な意味を持たせています。


なのでスペースを開いて誰も来ないのも寂しさも何もない感じです。


この間、とある方と話していて「ほとんどの情報をスルーしてる中で、どれをスルーしないか」という事を意識さているということを話しておられました。


自分の場合はだいたいを受け止めどれを捨てて行くか的なものが元からあった気がして、そこからは脱却出来ていなかった気がしますので衝撃的でした。


自分自身を知り、どのように導いて行くかはとても大切に思います。


当たり前な事なのですが、本当にその重要さを改めて痛感させられるのです。


最近、本を読む事で所謂「名作」と言われる古典的な小説を読みました。

これもまた灯台もと暗しといった具合いでして、「名作」というイメージが強く何となく難しく敷居が高く感じていましたが、読むとそんな事は全くなく(言葉の難しさや時代背景的な言い回しは難しいのですが)とても身近に感じ、何故今まで読まなかったのかと思い込みに対する大きな学びともなりました。


よく他人からは「個性的」と言われますし、自覚してます。


「個性的」

とても便利な言葉ですが、その言葉のせいで、まるで霧かモヤのように自身を探求する障害になっていたように思います。


自分は根本的な考え方や脳の構造が特殊であると自己分析しています。

「感受性が強い」とも言われますが、これは大きな自己分析のヒントであり文章や音楽から感じ取るものが他人より強いとここ最近では確信しております。


そして、今は色々な小説や音楽を自分という特殊なハードディスクに落とし込んでいます。


小説を読んだり、スペースで話したりし、内省を経て至りました。


この1つ前の記事の「鏡」にこの件と近いものを書いてあるかと確認の為に読み返したのですが、自分の書いた文章ではあるのですが、今の自分の心情からとても離れていて大変驚かされました。


迷いや惰性、伝えたい事も薄く濁った印象です。


たかだか3日でこんなに変化する物なのですね。


人間の神秘を感じますね。


恐らく「鏡」を書いていた時はリストの音楽が頭を流れている事が多かった気がします。


今はシンフォニエッタ第三番「響の森」のラストの盛り上がりの前の部分がピンポイントでリピートされています。


たまたま、訪れた場所や読んでいる小説と紐付けられたりする事もあるんですよね。

今はそんな風に思わないのですが、この先今読んでいる小説を思い出したりタイトルを見たら「響の森」のメロディーが流れるのかもしれません。


これは恐らくADHD的な特徴の1つだと思うのですが、大変心地のいいものなのです。


前回の記事は、「書かなくては」という意思に駆り立てられエンジンがかからないまま書いた調子ですが、今回は1つのテーマの核から広がりスラスラと書けています。


前回は途中休憩も挟んで手間がかかっています。


そして読み手に分かってもらおう、あわよくば感想なんかも欲していたと思いますが、今は分かってもらおうとも思わず書きたいことを書き、感想も欲していません。


また数日経って心境が変化した時にどう思っているのかは分かりませんが、非常に曇りも取れ自分らしいと感じています。


もう20年前になりますが「言いたいことも言えないこんな世の中じゃ…POISON」て歌詞がありましたが、今正にこれでありまして、本当に言いたい事はミルフィーユのように何重にも膜が張り分からなくなってしまっていた様に感じます。


今、本を通じて過去の時代や時代背景を肌身に感じる事は、俯瞰して自分を見つめ直すことに大いに役立つ気がします。


自分の人生で、あとどれくらいの本を読めるだろうか


どれだけの人と出会えるだろうか


まだ見ぬ人と出会う際にに豊かな自分で居られるように、こらから頑張ろうと思います。