【自己紹介・発達障害と黒白歴史(46歳の今)】 | 今日もズレてます!発達障害だからこそ楽しい人生【まるも工房】

【自己紹介・発達障害と黒白歴史(46歳の今)】

♪自己紹介のページ(46歳の今)♪

 

ご覧くださいましてありがとうございます。

 

まるもと申します。

昭和53年生まれ、46歳のサラリーマン(自動車部品メーカーにて技術開発職で奮闘中!)

(46歳バージョンへ更新)

 

発達障害当事者です(ASD、ADHD診断済み(以前はADDでした)。自立支援医療制度を受給しております)

また、「不思議の国のアリス症候群(ガリバー症候群)」当事者でもあります。

(※発症すると突然、全ての物が小さく見える現象に襲われ(遠近感の概念が脳から無くなる為)、目の前のドアも自分が通れるか判らなくなります

 

 

 

【発達障害が診断されるまで】


生後~幼少期は動脈管開存症、硬膜下水腫(生後すぐシャント術、12歳で除去術)、髄膜炎など色々経験し、長年両親には心配を掛け続けておりました。

物心が付いた時から、回るものに強い興味を示す(興味の限極)
一例として、観覧車、歯車や滑車、自動車や重機の駆動装置等

象徴的な行動は、遊園地へ行くと観覧車や絶叫マシンのメカを駆動する動力伝達装置に駆け寄り、仕組みを解明する事に執着します(大人になる前にこの行動は無くなりました)。

 

幼少期~中学生までは色々な「一人遊び」に夢中になりました。


・絵画(デッサン、クロッキー、パステル、油絵、様々なSFに出てくるマシンの絵)


・レゴ(もちろんオリジナルの創作、後述しますが幼稚園の時に3つのデフを持つフルタイム4WDメカ(ステア機構まで)を作成)


・ゾイド(マッドサンダー、デスザウラー、アイアンコングMkIIの世代。塗装や破壊エージングを施し、戦闘シーンを再現したジオラマ作成に夢中になった時期も)


・プラモデル(クルマやトラック、軍用車のスケールモデルを中心に幅広く。例外としてドラグナーに登場したロボットも沢山作りました)


・その他組み立て系知育玩具(MECCANO=メカノは機能美としての芸術性に衝撃を受けました)

 

 

【MECCANO(メカノ)】

投資を惜しまなかった両親に感謝...



記憶の偏りは激しく、2歳ごろからの様々なエピソードの記憶は断片的に鮮明にあります。
一方で、様々なトラウマの原因となった出来事の記憶はごそっとありません。


小学校~高校はいじめに遭う毎日でしたが、友達も2,3人おり何とか卒業

 

中学1年生のクリスマスに、親が欲しかったミニコンポ(SONY pixy P77X)を、私のクリスマスを口実に買ってもらうのですが(よって私には当日まで内緒だった)。親の目論見外れて、完全に私は許される時間のすべてをミニコンポと睨めっこするまでハマってしまい、今日まで続く趣味となりました。

 

 

【私の人生を大きく曲げた?SONY pixy MHC-P77X】

【息子のクリスマスプレゼントを口実に、自分(父親)が欲しかったコンポを買ったが....】

 

 

ここでアスペルガーの特性が解き放たれ、周囲の友人にミニコンポの自慢話を延々と続け、嫌われてしまう経験をするもそれに気づくのに数年掛かりました。

大学時代はサイクリング部、クラブ運営員会、クリーンアッププロジェクト等課外活動を謳歌し、現在も続く友に多く出会うも、ゼミにて大学院生からのいじめに遭い4年生後半にして卒業まで人生初めての登校拒否。


教授の温情により4年で大学を卒業、折しも当時は就職氷河期。
なんとか転がり込んだ今の職場(自動車部品メーカーに2001年入社)にて、自分の発達障害による特性を突如として良い方向で発揮(その時点では未診断どころか発達障害の「は」の字も知りませんでした)

入社2年目から、社内では私一人、CAE(解析業務...強度解析、機構解析、流動解析)を任され、大きな責任のある役割を頂き、自信をつけさせてもうらう。
(この業務について社内には技術的に長けた人がおらず、私が技術的に行き詰まった時はソフト開発元や遠方本社の先輩に相談する必要があり、コミュニケーションスキル向上に役立ちました)



【衝動的な行動がある日突然始まる】

 

今でこそ「人格の解離」「解離性障害」と呼ばれる現象と判ったものの、社会人になった途端、突然キレて周囲を脅かせる言動に悩まされました。とにかく自分で全くコントロールが効きませんし、いつ突然暴発するか解かりません。

 

わらにすがる思いで、調べて辿り着いた心療内科へ行きますが....

 

 


【発達障害と診断され、生きづらさの原因が判明する】


確定診断前、ネットで調べてお邪魔したとある心療内科で症状を先生に伝えたとろ

「症状が重すぎる!出ていけ!」と初診中に追い出されました(母も同行、穏やかな雰囲気で説明したのですが)。

 

実はその病院は、鬱病の若い女性しか診ない病院だと後で知りました。

心療内科の中にはそのようなクリニックもあります。初めての病院へ行くときは事前にクチコミを確認しましょう!

 

その後辿り着いた県立精神系大病院にて名医と出会い、初めて発達障害の診断に至りました。

(この頃はまだ「アスペルガー症候群」の名が知名度を高めつつある時期)

 

27歳、社会人4年目で「発達障害」初診断。

内容としては、自閉スペクトラム症(ASD)、注意欠陥(ADD)(初診断当時)

2次障害として、双極性障害、解離性障害です。

【私の診断書(現物)】

2024年”多動”も正式に診断頂いた為、ADD → ADHDとなりました...

診断当初はこの診断名の「扱い方」を良く解らず、職場、友人の一部にカミングアウト。

結果、長年の付合いがある方でも、私と口を利いてくれなくなった方、上から目線に変わってしまった方が続出して悲しい思いもしました。


父親からも認めてもらえず「お前は横文字の肩書きが欲しかっただけだろ!」と向き合って貰えませんでした。

→ 発達障害に限っては、いかなる場合も(診断病院以外では)一切のカミングアウトは無用(絶対ダメ)という考えを持つようになりました。




幼少~大学卒業までは全てにおいてドベ争い(単位はギリギリなど)でしたが、就職後は様々な事柄で1位を目指せるようになりました。




また、苦手な電話応対業務を克服するために、2012年、NTT主催の「全国電話応対コンクール」に出場。

 

テーマは「ちゅらさん琉球ガラス工房(架空企業)」にて、琉球ガラスのお土産を販売する販売担当鈴木さんに扮して、お客様に商品を案内するという課題。

 

地区大会を突破、県大会で優秀賞を頂いた事で発達障害が原因と思っていて「出来ない」と決めつけていた事も、努力次第で克服可能だと気づきました。



しかし部署異動の多い職場でしたので、数年ごとに新しい上司に発達障害をカミングアウトし、向き不向きを説明しておりましたが、2014年の部署異動で問題が発生。

 

新しい部署内には障害に対し強い偏見を持たれた方が複数おられ、「犯罪者!」「退職届を持ってこい」「お前は今まで何も仕事をしてこなかった」「障がい者にはより重い罰を与える」とののしられる日々でした。

 

また、私だけ残業手当を貰えず(日報に残業を付けさせて貰えない)、部署内のトラブルは全て私が原因と事実を捻じ曲げ社長に報告され、極めつけは「障がい者排斥運動」の様な活動を起こされ追い詰められました。

その結果、2016年・夏、2018・夏、それぞれ1ヶ月間職場から離れる事に(有給休暇)。
40歳(部署異動から4年後)で心折れ、退職も視野に入れ障害基礎年金の申請に踏み切るも却下判定
 

 

これを機に職場に骨を埋める覚悟を決め、守りから攻めの姿勢へ。

内なる保守的な自分に対する反撃を開始(決してお世話になっている職場の方々と闘うのでは無く、どうすれば組織から必要とされる存在になれるのかを問いただすのです)。
 

 

【支援を受けていても、贅沢を遠慮することはありません!】

【自力で得た事に変わりはないのですから】

 

 

 

現在も同じ部署にて、何故か今頃遅咲きな毎日を送っております。2024年4月で、入社24年目突入!
元々マルチタスクやマネジメント系業務が苦手でしたが、気合と根性でどんどん克服出来ております。

 

とはいえ気合も根性もすぐに売り切れてしまいます。マルチタスク・マネジメント共に、はっきりしたカタチの無いものを頭でイメージが出来ない為、各タスクのスパン、納期、優先度の管理について、外部記憶装置(ノート、メモ帳、EXCEL)を組み合わせることで、徐々に恒久的な克服が出来つつあります。

 

今では、CAE解析業務も含め業務範囲は多岐に渡り、それらマルチタスクのマネジメントが継続出来ております。



【ピアサポートで出逢えた同胞】(この項目はピアサポートの解説も兼ねてます)

 

ピアサポートとは、病院の先生(または専門知識をお持ちのソーシャルワーカーさん、臨床心理士さん)を中心に、同じ発達障害当事者が複数集まって話し合うイベントです(病院の他、現在はカフェで開催するなど様々な形式が存在します。当事者の人数も3名程度~20名以上など多様)。

 

例えるなら、病院の先生やソーシャルワーカーさん、臨床心理士さんが「担任の先生(ファシリテータ)」となり、集まった当事者は「生徒」。まるで学校のクラスの様!

 

 

私が経験した内容は主に

・当事者1人ひとりがそれぞれ社会、学校、私生活(家族)での悩みや生きづらさを打ち明け相談し、答えられる別の当事者が解決方法をアドバイスしたり、みんなで話し合って答えを導く(※ライフハックでもありますから、効果は絶大なのです!)

基本的に先生や周囲のスタッフ(サポーター)からの助言は最小限です。

勿論、話すのが苦手な当事者さんも多く、聞いているだけのスタイルも歓迎です。

 

・先生がテーマを決めて、座学やワークショップでQOLやソーシャルスキルを上げていく。

ポピュラーなテーマは「あいさつと距離感」、「人への頼み方」、「感覚過敏への対応」、「アンガーマネジメント」等、思いつく限り無限に存在します。

 

そんな多くのイベントを通して出来た横のつながりも多く生まれ、知り合った同じ当事者の方々は、年齢も性別も様々ですが大切な「同胞(そう呼ばせて頂けるなら)」的存在です。

 

それぞれが学校、職場、時には無理解な家族から多くの錬磨、理不尽な仕打ちを受け続けて生きてきておりますから、みなそれぞれ当事者ならではの特異な経験や回避策を持っているのです。

 

 

ゆえにトラブルもつきものです。

抱えた感情が大きすぎ、外でも感情のコントロールが出来なくなる事が起きる方々も見えます。

 

気心知れた仲と思っていた穏やかなメンバーさんの1人が、会の最中に突然フラッシュバック(過去の辛いトラウマレベルの体験が突然あたかも今経験しているかのようにリアルに脳に蘇る現象)を起こし、大声を上げたり暴れ始めたりする事もあります(フラッシュバック=発達障害ではありませんが、当事者が持っている事は珍しくありません)

 

また、自閉傾向のある方であれば相手の気持ちを想像することが難しく、悪気なく相手を傷付ける発言をしてしまい、喧嘩に発展する事もあります。

 

ですが、それらは十分想定内で、そのためにスタッフが数名常駐し対応に当たってくれます(私もトラブルに居合わせた経験は何度もあります)。

 

 

それよりも大切な事は、自分一人では無い、近い苦労を経験されている方がこんなに多くいらっしゃる、それが判るだけでどれほど明日からの生きる力に加勢してくれることか!




【父親】

2021年に父が多系統萎縮症により他界。
元々幼少から虐待(暴力と幽閉)を受け、亡くなるまでの20年間はほぼ口を利いておりませんでしたが、亡くなった後も父に対する感謝の気持ちを持てず、良い思い出や感謝出来る様な父との記憶を「探している」様な状態。

大人になった現在、振り返って気づいた事

私の父は、明らかに家族を支配することで愛を確認するタイプでした。

我が子を絶対服従させ、社会との関わりを最小限に制限(学校と塾のみ)、テレビも試聴禁止、暴力は日常茶飯事...(もちろん我が子と向き合うなんて発想すら無かったでしょう)

それでも私が病気になれば心配し、大学進学が難しくなった時も本気で焦ってくれていた事も事実。

矛盾も感じますが、そういう人だったんだと受け入れております。

 

ですがこの様な家庭環境に育った当事者は私だけでは無いと確信しております。



【今思えば特殊能力?】


発達障害による特殊能力として、幼稚園の時にはレゴブロックでセンターデフ機構をもつ4WDのメカを作製(前述)
3つのデフを使った実車と同じ構成。ただ、40年程前の当時のレゴには今のような便利な部品が無く、前輪を操舵させる構造に苦労したことを覚えております。

小学生となり、建物や景色、機械、乗り物のお絵描きが大好きで、等角投影図法、斜投影図法、1点透視図法~3点透視図法やパース効果を独学で習得(勉強ではなく自然に発見する)。

音楽面では、楽譜は読めませんが暗譜は得意。また、気に入った曲があるとハモリ旋律を始めオーケストラのスコア楽譜をパソコンの作曲ソフト(DTM・DAW)で作成できますが、周囲から驚かれるので特殊能力なのかな?と思う事があります。


発達障害に対する差別、偏見が絶えない社会を日々実感しますが、少しでもイメージ改善の一助となるようなブログが書ければと日々精進しております