別に庭仕事が好きなわけではないのだけど、何しろしばらく放置されていた広い庭が目の前にあるものだから、毎日の庭仕事は必然だ。庭をいじりながら家屋も庭も建てられた時にはさぞ素晴らしいものだったんだろうなと想像できる場所をちょこちょこと発見する。庭には、もともとの土地の土壌の改良をしたあとに庭木が植えられている。その土地の改良だけでも相当な手間暇とお金がかかっただろうことは素人の私にもわかる。散水栓が埋め込められていたり、水栓も何か所かある。それぞれにやたらと長いホースが装着されていたけど、それらも朽ちているので外してゴミに出した。家屋の建材をみても、古くはなっているけど、どれも安いものは使われていないことがすぐにわかる。まったくお金というものはあるところにはある、とつくづく思う瞬間だ。

漏れ聞くところによると、古典芸能の関係の人が建てた家らしい。家の造りを見ても、こんなに贅沢な造り方をしているのに数年で手放したということが私には信じられない。根っからの貧乏性の私ならどう考えても手放さずにとことん使い切るに違いない。庭の樹木だって根腐れを起こして朽ちるまで放置するなんて信じられない。そんなことになるくらいなら植えません。

ということで、毎日糸鋸と剪定ばさみ、クワとシャベル、ゴミ袋とトングをズルズルと引きずって庭の手入れをしているというところだ。他にやりたいことが多くあるんだけど、何しろ庭の目途がたつくまではちょっと無理。

庭には多くのバラがある。半分は既に枯れていて、その枯れたものが生きている枝に絡まってもはやカオス状態である。長く伸びた枝を端から端まで眺めてまったく新芽が出ていないことを確認して、糸鋸でガリガリと切る。案の定、切られた枝は完璧な枯れ枝である。そうやってカオスの枝群をすっきりとさせるのは気持ちよく楽しい。バラというのはとにかく手のかかるというか、贅沢な花だということは20年ほど前に育てた経験からわかっているつもりだ。なので、あーはいはい、ここも切りますよとか1人でブツブツ言いながら手をかける。その昔、私が幼稚園の年中さんのころに、生まれた土地を離れて、父の会社の社宅に転居した。そこは2軒長屋が連なるところで、我が家はその端にあった。その隣には何もない広っぱがある。敷地の境目には白いバラの垣根があったことを覚えている。前に住んでいた人が手入れしていただろうそのバラたちはとてもよく育っていた。後になってそれは結構大変なことだということに気づくのだが、まぁ、とにかくそのバラは無頓着な母によってあっという間に枯れてしまった。この家を買うと決めた時にはそこまで気づかなかったんだけど、こうやって日々バラの世話をしていると、あの時からバラには縁があったのかもしれないと思ったりもする。

何年か放置されながらもとにかく生き続けた植物たちのメンテナンスをする私はまるで眠り姫にでてくる王子様のようだ。なんて思いながら、あるところにはある贅沢の残り物で、日々楽しく豊かに暮らせるのはラッキーとしか言いようがない。