僕は「バナナ」に目がない。
「まるごとバナナ」とか、よく買う。
カフェでバナナスイーツとか見るとテンションが飛び跳ね、反射的に「これだ!」と決定している。
さて、「反射的」ってどんな状態だろう。
鏡の反射は分かりやすい。光がはね返っている状態だ。
脚気(かっけ)の検査も反射だ。脊椎反射というやつだ。
でも、バナナスイーツを注文するのは脊椎反射ではない(そりゃそうだ
)。
僕のバイブル「7つの習慣」という本の中に、"人間は刺激と反応の間に「選択の自由」を持っている」"という言葉がある。
![○○とデザイン [ toDESIGN ]-選択の自由](https://stat.ameba.jp/user_images/c6/50/10144047259.png?caw=800)
この時「選択の自由のスペース」は、その時の状況や、人それぞれで違うだろう。
しかし、何らかの要因で、反応の信頼性を損なわないままに、「選択の自由のスペース」が限りなく短くなることがあるのではないか?
そして、その状態を「反射的」と呼んでいるのではないか?
![○○とデザイン [ toDESIGN ]-反射的](https://stat.ameba.jp/user_images/8e/f0/10144047260.png?caw=800)
普通の人は「バナナ → バナナってこんな味だったよなー → よし食べよう」だが、僕の場合は「バナナ → 食べる」なのだ。
それはきっと「バナナはとてもうまい」
、という強い回路が僕の頭に出来ているからだろう。
つまり、僕の中では「バナナは審査するまでもないエリート」なのだ。
マーケティングでいう「ポジショニング」に近い話かもしれないが、消費者の頭の中の「反射的エリート達」の仲間入りが出来れば、製品でもサービスでも、もっと売れるのかもしれない。
ちなみに、以前の記事(「戦略PR」とデザイン)で出てきた「カジュアル世論」も、選択の自由の時間をじわじわと短くしているに違いない。
ああ、、、僕の頭の中のフルーツ部門には「王座バナナ」が君臨しているのか、、、

「まるごとバナナ」とか、よく買う。
カフェでバナナスイーツとか見るとテンションが飛び跳ね、反射的に「これだ!」と決定している。
さて、「反射的」ってどんな状態だろう。

鏡の反射は分かりやすい。光がはね返っている状態だ。
脚気(かっけ)の検査も反射だ。脊椎反射というやつだ。
でも、バナナスイーツを注文するのは脊椎反射ではない(そりゃそうだ
)。僕のバイブル「7つの習慣」という本の中に、"人間は刺激と反応の間に「選択の自由」を持っている」"という言葉がある。
![○○とデザイン [ toDESIGN ]-選択の自由](https://stat.ameba.jp/user_images/c6/50/10144047259.png?caw=800)
この時「選択の自由のスペース」は、その時の状況や、人それぞれで違うだろう。
しかし、何らかの要因で、反応の信頼性を損なわないままに、「選択の自由のスペース」が限りなく短くなることがあるのではないか?
そして、その状態を「反射的」と呼んでいるのではないか?
![○○とデザイン [ toDESIGN ]-反射的](https://stat.ameba.jp/user_images/8e/f0/10144047260.png?caw=800)
普通の人は「バナナ → バナナってこんな味だったよなー → よし食べよう」だが、僕の場合は「バナナ → 食べる」なのだ。
それはきっと「バナナはとてもうまい」
、という強い回路が僕の頭に出来ているからだろう。つまり、僕の中では「バナナは審査するまでもないエリート」なのだ。
マーケティングでいう「ポジショニング」に近い話かもしれないが、消費者の頭の中の「反射的エリート達」の仲間入りが出来れば、製品でもサービスでも、もっと売れるのかもしれない。
ちなみに、以前の記事(「戦略PR」とデザイン)で出てきた「カジュアル世論」も、選択の自由の時間をじわじわと短くしているに違いない。
ああ、、、僕の頭の中のフルーツ部門には「王座バナナ」が君臨しているのか、、、
