発達障害児であるあっちゃんを育てる中で、頻繁に「誰だって得意なこと苦手なことがある。あっちゃんだって診断受けなくても良かったんじゃないか?普通なんじゃないか?」と未だに思うことがあります。

あっちゃんは人より苦手なことがあるけれど、人より得意なこともあります。

でもそれは定型とされるお友達を見ていても、同じです。

正直私は未だに障害受容が出来ていないのかもしれません。

(でも診断名がついたからこそ放課後デイに行けて、あっちゃんの苦手なことを理解してくれる先生にみてもらえるので、診断がついたことは良かったと今は思えています。そして矛盾するようですがやっぱり発達障害だよな…と思う瞬間もあります。)


私は定型として生きてきましたが、とても運動が苦手です。

学生時代の体力テスト(ボール投げとかシャトルランとかあるやつ)では大体DかE評価でした泣き笑い

小学校時代は自分の足の遅さに泣いた記憶もありますが、中学校以降ではそんなに困った記憶もなく「私運動音痴なんだよね泣き笑い」と笑えてました。

もちろん大人になってもなんの支障もありません。

ただ、スポーツ選手になることが主流の世界なら私は発達グレーとか障害と認定されたかもしれないなとは思います。それぐらい運動音痴です。

あと私は視力が悪いのでコンタクトをしてますが、メガネやコンタクトが無い時代だったら障害者だったのかも?


何が書きたいかと言うと、苦手なことが困りごとになるかどうかは、結局住む世界や時代によるんだろうなと思います。


あっちゃんは板書が苦手なんですが、授業を理解していない訳じゃない。

問題を解くのは早いし、先生が「分かる人?」と聞いたら一番に手を挙げて正解できます。

ただ板書が本当に出来ない。苦手だからノートに絵を描き始める。

そうするとやっぱり先生にはどうしても叱られます。

(1年生のときの先生には休憩時間も全部潰され、時には体育の時間まで1人だけ板書させられていたこともありました。)

そしたら周りの子もあっちゃんを見張るようになり何か少しでも正しくなければ口々に注意するようになりました。

幼稚園時代も1年生のときも一時期こんな風潮があり、とても辛かったと思います。

支援級に行けばそんなことは無くなるのかもしれない。

けれどあっちゃんの学校の支援級は勉強の進度が通常級とは全然違う。

授業中の板書で叱られがちだけど、得意な分野を発揮できるのも授業中というジレンマ………。

あっちゃんは皆の前で発表するのも自分の考えを言うのも皆の考えを聞くのも好きです。


どう思われるかを恐れずにあっちゃんの親として本音を言えば、板書出来てなくても授業理解できてるんだからいちいち叱らないで吊るし上げないで欲しい。

そんなに黒板に書いてあることが大事ならカメラ持たせるから写真に撮らせてほしい。

そんなの1人だけずるいと言わずにそれなら皆にもそれを許して欲しい。

というかそもそもカメラなんて使わなくてもさっと板書出来る定型の子達のほうが羨ましいよ。


けれども現状通常級でそれを言えばモンペになるので…。

板書は出来たほうが良いもので、出来ないなりに一生懸命やってる姿を見せないといけないし、苦手でもお絵描きなんてしてはいけない。

と子供には教えるべき世界なのかなとは思っています。たぶん我が子がこういう子じゃなければ、私も疑問無くそう思ったと思う。


………ごめんなさい、ちょっと何を書きたいかわからなくなってきましたあせる


運動にしろ板書にしろ出来た方が色んなメリットがあるのはもちろん分かってるんです。

ただ、他の人より頑張っても出来ないものは出来ない。

それを出来るようにするためにどこまで時間や手間をかけ、負担を強いるべきか。

その時間笑顔で過ごすこととどちらに重きを置くべきなのか。

もちろん正解は無いけれど、考えたいし、先生にも考えて頂けたらありがたいなあと思う今日このごろです。

私の学生時代、足が遅いことや体力が無いことを延々と責められ休憩時間全部走らされていたらたぶん私は不登校になっただろうし、大学にも行けていないだろうし、今の仕事にも就けていないと思うので…。


あっちゃんは発達障害と診断されたけれど、いつか視力低下に対するメガネのような代替手段が沢山出来て、苦手なことが困りごとじゃなくなると良いのになあ…と思います。

※ちなみにあっちゃんの困りごとは板書だけではありません汗


とりあえず、私はあっちゃんの特性をより理解して、うまく言語化出来るようになって、先生にも不快な思いをさせずに理解してもらって、良い感じの対応をしてもらえるよう働きかけられるような母になりたいです。

難しすぎる泣くうさぎ

けれども頑張ります…

ブログはその練習も兼ねているのでこれからも細々と続けていきます。