エーゲ海の美しい小さな島、ギリシャレスボス島。各国から多くの難民が流れ着く。海には夢を目前に沈んでいったたくさんの命が波をうち、島には世界の矛盾という現実に苦悩する人々の人生に溢れている。そのコントラストがなんとも言えず物悲しい。

 

そう、難民とは、ニュースで見るその数ではない。

その数分だけの人生というストーリーがある。

その全てが壮絶だが、価値がある。

この島で、私もストーリーを編んだし、誰かのストーリーの一部になった、とも思う。

 

私のストーリーとは。

 

私はこの島の難民キャンプで、剥き出しで、純粋な愛に出会ってしまった。それが私の心を掴み、結局3度足を運ぶことになった所以である。

 

3度目の訪問で私は気づいたことがある。私は愛を探して生きているのだと。物覚えついた頃から、親に愛されていないと思っていた。友達に必要とされていないと思っていた。何か特別な事があったわけではなかったのだが、潜在的にデリケート過ぎたのだろう。愛の空虚感は優等生のふりして得ようも満たされることはなく、16歳で発症した摂食障害は、愛されたいがための自虐行為だったと思う。病気になったって求めていた愛を得ることはできないと知り、諦め、私の意識は外へと向いていった。

 

30歳で念願のバックパッカー。

 

そうして、ここモリア難民キャンプで出会った剥き出しで純粋な愛。それは、とてもシンプルなものだった。

 

hello my friendと声を掛け合うこと。出会ったら握手したり、ハグをして相手を感じること。食事に来い来いとテントに誘うこと。もっと食べろと遠慮するなと言うこと。帰るなと引き留めること。毎日を何気なく一緒に過ごすこと。例え知らない同士でも、困っていたら一目散に助け合うこと。別れ際に抱きしめあって未来を祈り合うこと。

 

家族や友達には、

I love youと伝え、

頬にキスして、

愛を表現すること。

 

私がずっと欲しかったものが、日常にあった。私は日本でこれらを知ることはなかった。30歳にしてやっと、難民の家族や友達から知った。苦しい状況下のはずなのに、こんなにも暖かく人間性に溢れているというのは、衝撃だった。

 

もちろん美しい話ばかりじゃない。そう、まさに彼らは苦しい状況下にある。お金なんてない。長期に渡るテント暮らし、野外に共同のトイレ、流し、シャワー、衛生面は悪い。夏は熱く冬は寒い。雨が降れば足元は悪く雨漏りも。いつ難民認定されるか分からず、待つだけの日々に疲弊していく。強制送還に怯える人もいる。小さなこの島に仕事なんてない。やることなく、ストレスで堕落していく人も少なくない。たばこ、アルコール、ドラック。いろんな民族が集まってるもんだから、喧嘩も多い。自殺者も度々報道されている。それでも、自分をなんとか保とうと、NGOの学校へ行ったり、NGOのボランティアとして無償ながらも働く人もいる。

 

ここで私が出来たことなんて全然ない。少しの労働と少額の寄付。それに対し、私は多くの愛と学びを貰った。もやは、心配や迷惑を掛けたり、嫌な思いをさせてしまった事も多いと思う。キャンプでなるべく長くみんなと過ごしたい、同じフィールドで感じたい、そうやって毎日足を運び、時に夜を越したもんだから。そんな私は、みんなにとって初めての日本人で、まるでボランティアらしからぬ、異様な外国人であっただろう。勝手でごめんなさい。でも、止められなかったのは、そこに愛があったから。

 

その愛で私のストーリーを大きく動かしたのが、あるイエメン家族とその息子くんである。とにかくお父さんが愛情深く、ジョークでいつも家族を笑顔にする。みんなもお父さんを尊敬する、素敵な家族だ。私のことも家族の一員だと言って、それはそれは愛してくれた。毎日ごはんを一緒に食べ、ちょっと遠慮しようも今日は行かないなんて言った際には、どうしたのか、疲れたのか、嫌になったのか、体調悪いのか、と遠慮の余地を与えてくれない。家族なんだから「悪いね。。。」なんて必要ないんだと。それに甘えた私は、毎日通ってはゴロゴロしたり、妹達と遊んだり、沢山の時間を過ごした。最後には家族全員をレストランに招待し、なんやかんや言い争いながら注文し食事をしたそれは良い思い出。

 

私はまるで、この家族に私は恋をしたようだった。そしてその息子くんが私に恋をした。それはそれは問題児で、私を掻き回した。根は良い子。だってあのお父さんの子ですから。でも、数度の訪問の中で彼が変わって行くのは明らかで、私もどうしたら良いものか。アラブってね、感情的になって良い文化。なんで、私も泣いたり怒ったり叩いたり苦笑 夜中のキャンプを駆け出すもんだから、回りには心配かけました、すみません。

 

変わってしまった息子くんには、最終日まで散々な扱いを受けた。最後だから2人で話したいって頼んでも友達のもとへ行ってしまい、戻ると言ったのに友達のテントで寝ちゃうもんだから私は深夜のテントに1人放置、寝ずに6時間待ったが朝根を上げ宿に帰宅。その日の午後、フェリー場へ向かう前でさえ眠いと起きてもらえず、当初の予定よりも遅くなった。その上、ラマダンだからと触れることもロマンチックな言葉もない。ちっとも私のこと気にしないのかとブチ切れても理解していない様子。まぁ、好き勝手やってきた19歳のアラブメンズ。子供すぎる、かなぁ。。。

 

でも当初は違った。私は彼の優しさと無邪気な笑顔、時おり見せる大人の一面と真剣な私への想いにやられ、受けいれることにしたのだもの。今はストレスで物忘れ激しく、多動症みたいな症状がでてきた。話がポンポン変わり、人目が気になり終始くるくるあたりを見渡すし、じっと座ってられない。あと鬱の一種だろう、昼間はずーっと寝てて、夜中だけ起きる。寝付きが悪く眠りの質も良くない。何もできないしようがない自分をゴミと言い、タバコの量が増えた。アラブ文化だからってのもあるけど、2人の関係性を噂されるのをとにかく嫌い私を避ける。しかし、メッセージでさえ素っ気無いし、好きな人に放置され、無いものの様にされるのは辛いよ。

 

でも船に乗る前、最後に2時間弱やっと話すことができた。私が今回来ないほうが良かったかな〜というと、そんなことないと。私嫌な思いさせてた?と聞くと、ちっともと。この一連の散々な扱いはナチュラルなのかこの生活のストレスでおかしいせいなのかと聞くと、後者であると。私はもう日本帰るしこのまま終わりなのかと危惧していたけど、とりあえず向こうにそんな気配はなさそう?2人の未来は「インシャアッラー」神が望めばそうなると、言っていました。はぁ、私は神ではなく、あなた自身に聞いているんですけど。まぁ文化が違うからしょうがない。私もインシャアッラーで気丈にいくか。

 

周りに人から見たら、絶対もう終わったじゃんって思うでしょうね。でも、誰にもジャッジできないよ。アラブ文化、難民ってのを誰が考慮できる?フーシに入隊を誘われ、大学進学を諦め逃げるも、途中に9度も捕まり牢屋に入れられ、やっとの思いで辿り着いたこの島で不安と待つだけの日々を7ヶ月、大人になりたいのになれない自由が効かない19歳のね多感な時期にね、誰がそれを考慮できるの?

 

いや、私痛いか?ラマダン前に言ってくれた甘い言葉を信じ、神に祈るなんて。でも、一度愛してしまったらもうちょっと頑張りたい。

 

ともかく不安な思いの船の中、ふと開いたSNSに予想外のhappinessがあった。別れ際に私があげたペアのブレスレットして2人で撮った写真をアップしていたのだ。

すべての人に隠してきた関係なのに、そんなバレるようなことするなんて。果たしてこの意味とは?

 

You will see...

 

何はともあれ、私は6ヶ月と数日のこの旅を終え、遂に帰国となる。この島ではトータル2ヶ月過した。愛しいこの島に日本から訪ねることはもう難しい。それに、こっから先の数ヶ月後は、私の友達だって旅立ちの時。私が次に彼らに会うのはもうここじゃない。他の国で、きっとみんな働いて家を持って綺麗な服を着ているのだ。そうなっていて欲しい。彼らの夢や目標に近付いていて欲しい。

 

もしかしたらもう会えないかもしれない。そう思うと悲しいけど、悲しむよりも私がしなきゃならんのは、この愛を世界にどう返せるかってこと。アウトプットの術を考えねば。

 

さようなら、

みんな、

レスボス島、

モリア難民キャンプ。

ありがとう。

I love you

そして、

すべての人に幸せあれ。

God bless you