去年の今頃は「最後の能書き」を書くとか言って、最後のレーゼシナリオ論の長文を構想してたんだけど、春樹のアフターダークを知ってしまったので、路線変更してペラ何枚かでまとめる方向で・・・。長文なんか書いてる場合じゃないからね。
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- 『エデンの東』『欲望という名の電車』を撮った名匠監督エリア・カザンの孫娘ゾーイが脚本・助演した『ルビー・スパークス』を観た。
ゾーイ・カザンは文化系男子が好きそうな個性派美人で、ウディ・アレンにとってのダイアン・キートン、ミア・ファーローっていう感じ。私も嫌いではない。脚本も書けて巨匠監督の孫だっていう額縁にハメ込まれると、十人並みのルックスでも、欠点さえもスパイスにして輝くから不思議だ。
ただ彼女が今回書いた脚本には大きな破綻がある。それはクライマックス・シーンだ。
ビル・ゲイツ風の風貌の天才作家である主人公(演じるのはポール・ダノ。実生活でもゾーイの恋人)が理想の女性を作品の中に創造すると実在してしまう。天才作家だから、そこらにいる平凡な男が求めるような女を求めない。高校時代に教師と寝て退学させられるような厄介な女で、主人公と会っても、「貴方はタイプじゃない」「飼い犬に尊敬するフィッツジェラルドと同じ名前スコット(愛称スコッティ)を付けてるのは、貴方がそのことで尊敬する作家に対する優越感を持ちたいからだ」などと、初対面から主人公を批判する。しかし、彼はこういう女が好きなのだ。
同棲してしばらくは蜜月状態だが、だんだん彼女が自己主張を初めて、外泊したりするようになると、封印していた原稿を書き換えて彼女の設定をもっと自分に依存する性格に変えてしまう。まあ、天才も時には凡夫みたいに恋人を束縛したくなることもあるってことで、これは、可愛い矛盾だし、ありえる。
しかし、クライマックスシーンで「僕は君をどうにでもできるよ」と脅して、彼女の眼前でタイプを打ち込んで、彼女を自由自在に操縦して犬のように這わせたり「貴方は天才!」と連呼させたりして自分の力を誇示するようになるくだりは、ありえない。こんなことをする男だったら、最初からルビーのような女を求めないはずだから。厄介な女が好きな変わり者の男の話だったのに、いつのまにか、逆の話になっているのだ。終盤で、イプセンの『人形の家』からG・ホーンの『プライベート・ベンジャミン』にいたる、男が自分に都合のいいイメージを女に押しつけて束縛していることを告発するフェミニズム映画の典型に変身してしまった。そういうテーマが悪いってことじゃなく、最初の設定と違ってるじゃないか、別の話になってるじゃないかということ。
私なら、ルビーが彼氏の原稿を発見してしまい、今度は彼女がその小説の続きを書きはじめて、彼氏を改造してしまう、というようなオチにするな。
ルビーは、けっしてステレオタイプでなく、実在しそうな、「文化系男子が好きになりそうな個性派厄介女」だが、主人公の男はわりとステレオタイプな「偏屈天才タイプ」だ。だってメガネ男子なんだもん。まあ、天才作家ってことを分かりやすく表現するにはああするしかなかったんだろうけど。「文化系男子が好きになりそうな個性派女子」が求める物書き男のタイプといったら、あんなナード(=オタク)っぽい感じじゃなくて、おそらく『バーフライ』でミッキー・ロークが演じたヘンリー・チナスキー(ブコウスキーの分身)・タイプだろう。だから、もし自分なら、ルビーが彼氏がチナスキー・タイプに変貌していくように続きを書くような展開にする。
自分の創造物が一人歩きして、今度は創造物の方が自分を変える、っていうのこそ天才作家ならではの世界だろう。俺なら、そういう話にするね。あるいは第一稿はそういう話だったのかもしれない(ゾーイには才媛であってほしいから、そうであったことを祈る)。テコ入れでクライマックスが変わったのかもしれない。そのくらい、あのクライマックスは前半とのつながりが不自然だった。
ともあれ、ゾーイ・カザンみたいな小粋な感じの脚本家兼女優が出てきて実生活の恋人と共演・製作までやってしまうというのは、面白い現象だ。しかし、ウディ・アレンとダイアンやミアの例でも伊丹十三と宮本信子の例でもいいけど、こういう個性派女優と伴侶の共同作業が続いていくと、映画が文弱化する危険性がある。フランス映画やアレン映画がそうなっていった気がする。アレンは彼女たちと別れてスター俳優を使うようになってから、その限界をなんとか突破したが、アメリカ映画一般がああいう方向に行ってしまうのは良くないと思うな。最初は個性派美人も「こんなタイプの魅力もあったんだ」と発見できて新鮮でいいけど、それがウケて、カップル同士で製作し続けて、だんだん何の疑問もなく「個性派じゃなくて普通にイイ女」として彼女が出てくるようになると「個性派だって約束だったろ?あんたら勝手にやってろよ」という感じになってくる。伊丹映画みたいに。
ヒロインがフランス語を喋るっていうあたりに、この映画および作り手たちの抱える難点が表象されている気がする。フランスに文化的コンプレックスを抱いてるアメリカ人ってまだいるのね。80年代末に作られた、そして私が大好きな映画『モダーンズ』はそういう時代の終わりを告げる作品だと思ったのだが。
ちなみに、最近のパリジャン、パリジェンヌたちはゴダール、トリュフォーなんかに全然興味なくて、ウディ・アレンが大好きだ、という話を20世紀末に聞いたおぼえがある。さもありなん。さして美男美女でもないがお洒落で個性的で文化的な人たちの恋の駆け引きをフランス人たちがこぞって観る光景が目に浮かぶ。それが文弱化ってことなのだが。21世紀に、ゾーイ&P・ダノ映画がフランスでポストアレンと呼ばれたりは・・・しないよな。
http://www.junmiyake.com/loveyoujm/disco/laparty.html
80年代ってのは大貫妙子もフレンチポップス風で『クリシェ』なんてタイトルのアルバム出してたし、クレプスキュール・レーベルのミカドとか、早瀬優香子なんていうのもいて、お洒落お文化おフランスざんすなんてのが大手をふるってたね。90年代には一掃されてしまったようだけど(カヒミカリィを除いては)。小島麻由美もちょっとそれっぽかったけど、泥臭い昭和歌謡っぽさもあったから違うか。
このCDは、西武だかパルコだか忘れたけど、セゾン系のCMに使われていて、もう90年代に突入してたけど、音楽的にもジャケットのアートのセンスも、まだこんなことやってんの?って感じだったけど、こういうのやっぱり好きなんだよねえ。愚鈍さに恵まれた『時代屋の女房』にはなれなかったけどね。
「アフターダーク」がシナリオ風だった件で少し村上春樹を見直していた昨今だが、彼の新作「色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年」が話題になり、かなり売れていると聞いた。
あらすじを雑誌で読んでかなり面白そうと思ったので、一時は買って読むことも考えたのだが、既に読んだ人たちの感想から漏れ聞こえてくる細部を知ると、その気も少し萎えてきた。次の二つの点が原因だ。
①登場人物たちのニックネームにだけではなく、本名にまで色彩を表す字がつくのだという。あらすじでは、主人公が「完全なる調和と思えるほどの親友たちの輪から突然排除される」とあるのだが、まず完全なる調和とまで形容できるほどの友情というものを描写するのが作者の腕の見せどころのはずなのに、本名にまでいかにも調和の象徴っぽい色名がついていたら、そりゃ作者が調和するように人物たちを創造したんだから調和するに決まってるよなあ、としか思えない。まさに予定調和だ。実際にこの世のどこかにあるかも知れぬ「完全なる調和のごとき友情」とやらは、作品の中で観念に堕してしまうだろう。
彦左衛門のような古風な名前から、今風のキラキラネームから、正夫や広子のような平凡な名前まであるような、あるいは苗字だって、伊集院のような高貴なのから、米田のようなダサいのまで揃ってるような、さまざまな生まれや育ちの子達が集まって、友情が始まり、お互いが色名で呼び合うようになる、としないと面白くない。ファンタジーになっちゃう。大人の童話になっちゃう。
②灰田という人物と主人公とのかなり激しい同性愛描写があるという。友情の崩壊の理由を大人になってから解明する、というようなテーマに厳粛なものを感じてたので、そんなシーンがあるなら読みたくないよと思ってしまった。「そんなこと書くな!」という激しい拒否感は無いんだけど、「そんなこと書かなくてもいいのに・・・・」って思っちゃう。
やれやれ。
最近は映画離れ、映画館離れが続いていたけど、スピルバーグの「リンカーン」、ケン・ローチの「天使の分け前」、石井裕也「舟を編む」など、面白そうな映画目白押し。
ダスティン・ホフマンの初監督作とか、エリア・カザンの孫娘が脚本出演の、理想の恋人を書くと実在してしまう作家の話の映画とか、気になるのがいっぱいで困っちゃう。
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監督のサラ・ポーリーは元来女優で、私が洋画を観始めた頃から、気になる存在だった。
最初に観たのは、テリー・ギリアム監督の『バロン』で、まだ子供のサラは歯並びが悪く、しかし、その頃から強烈な個性を発していた。『アダムズファミリー』のクリスティーナ・リッチを超える毒気に満ちた子役で、ギリアム的世界にピッタリとはまっていた。
次に観たのはカンヌで賞を取った『スイート・ヒア・アフター』で、『バロン』で共演したユマ・サーマンにそっくりの美人に成長していた。実際、「第二のユマ・サーマン」という異名を取っていたようで、それは外見に由来するのか、生きざま(ユマはハリウッド批判を公言する猛女で、サラも社会運動のために高校を中退するような反逆児だ)に由来するのか分からない。その次が『写真家の女たち』で、毒舌で高慢な弁護士の母との舌戦をクールに演じていた。ここでの台詞のやりとりのエッセンスは、おそらく今回の作品の夫婦間の戯れの台詞づくりに生かされたと思う。
サラ・ポーリーそして今回が二度目の監督作だという。製作と脚本も兼務した。女優として本作には出ていない。ほぼ同い年のミシェル・ウィリアムズがヒロインを好演している。『ダークナイト』でジョーカーを演じた故ヒース・レジャーの元妻だとか。
作品自体は、スコセッシ&デ・ニーロが『タクシードライバー』や『キング・オブ・コメディ』でやっていたこと(社会の負け犬の虚実混交的な内面世界の描写)を女に置き換えたような着想の話で、アイデアに新味は無い。まあ、あれらの作品より寓話的ではあるが。つまり、人力車で生計を立てる芸術家とかチキン専門の料理研究家という人物の設定が、スコセッシ作品における運転手や芸人のように実社会の諸相を切り取ったものではなく、何かの寓喩であると思えるほど非現実的だということだ。前者は「欲求不満の人妻の妄想に出てきそうな、壮健な肉体(→人力車)と豊かな精神(→芸術)を合わせ持つ男」であり、要するに「欲求不満」のアレゴリーなのだ。後者については後述する。
ところで、男の話としては古くなった発想を女に置き換えて再利用する、というやり方の具体例としては他に、『カッコーの巣の上で』と『ブルースが聞こえる』を、それらが公開された10年、20年後に合成して女に置き換えたような『17歳のカルテ』がある。
さて、アイデアに新味がないからといって、本作が駄作というわけではない。かなり良かった。俳優たちは魅力的だし演出も巧いと思う。音楽や映像も良かった。
とくに、ヒロインの義姉のアル中が再発した終盤で、義姉が車から降りてきてヒヨコたちの入った箱を自分の夫に渡すシーンは何とも愉快だった。ヒロインの夫がチキン料理のレシピ作者という設定は、チキン=臆病を揶揄しているというレビューをどこかで読んだが、だとしたら義姉の夫もチキンになりはじめた、ということを、あのヒヨコは意味してたのだろうか。もしそうなら、通俗的でやや興ざめだが、ともかく、帰ってきたアル中妻が夫にヒヨコを手土産として渡すという絵が何とも言えず面白いのだ。セス・ローゲン演じる良き夫は、「家庭円満」のアレゴリーと言えよう。円満家庭の夫とはフグ田マスオさんのようにチキンっぽいのが普通である。これは、代入する要素によって成否が決まる方程式でなく、恒等式なのだ。どんな男でも結婚したら妻からはチキンに見える。人間の欲求は無限だから、勇者の妻もさらなる勇気を無意識的に要求するからだ。
プールでのお漏らしシーンも意表を突かれた。笑いが止まらなくなったことを冗談っぽく「漏れそう」と表現したのだと思ったらホントに漏らすとは。
わざとポルノっぽく撮った濡れ場にも皮肉が込められていそうだ。
とにかく、『バロン』でのあの毒気は、彼女の本質なのだな、と思った。なかなかの佳作でしたぜ。サラは、ソフィア・コッポラなんか足元にも及ばぬ、女優兼脚本家兼監督だと思います。いつかもう一度この映画を観てみたいと思う。
アマゾンドットコムのレビューでMikekoさんが、モダーンズ冒頭の絵画はヴァンドンゲンをパロったものだと書かれてたので、調べてみたら、これだっていうのが見つかった。パロディ版のほうが良いと思うなあ
モダーンズDVD再発売だそうです。おめでとう



