- さらば冬のかもめ
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映画「さらば冬のかもめ」(ハル・アシュビー監督、ロバート・タウン脚本)で、南無妙法蓮華経と唱える宗教集会のシーンは、ラストシーンの伏線にもなってるし日本人の良く知ってる言葉が出てくるから、憶えてる人も多かろう。
あのシーンで、お経を聴いていたジャック・ニコルソンが「なんだか不愉快になってきたぜ」という意味のことを言うのだが、私の脳内では、その台詞のくだりは「ジャックの忌々しそうな顔のアップ」として記憶されていた。しかも、ジャックの表情は、「思考放棄した奴らが宗教にすがりつきやがって・・・」というような激しい侮蔑に満ちたものと思っていた。その険しさと言ったら、「シャイニング」の発狂寸前段階とか、「カッコーの巣の上で」のラストでルイーズ・フレッチャーに飛びかかるシーンとかに匹敵するほどのものであった、と思ってた。ところが、再見してみたら、そのくだりは、仲間の黒人水兵や護送される青年ランディ・クエイドたちと並んだミディアム・ショットで、ジャックの表情もそれほど険しいものではなく、ちょっと呆れた、という程度のものであった。つまり、初見のときの私の心理状態が実像を歪めていたのだった。初見のときは大学生だったが、たぶん、宗教にすがりつくような人のことを激しく侮蔑していたのだろう。だからそのように記憶してしまった。
トム・ハンクス主演の「パンチライン」でも、サリー・フィールド演じる主婦に大衆食堂のようなところで愛の告白をし、「私には夫がいるの」とお約束のやりとりがあった後、食堂を出て夜の雨の中を狂ったように踊りまくるハンクスのロングショットとサリーの困惑の表情アップのカットバックが続く。
二人はスタンダップ・コメディアン志望という設定で、この映画自体が「お笑いをやってる人たちの、その仕事ぶりとは裏腹のほろ苦い恋物語」というトーンなので、このシーンはいわば映画全体を代表するひとつのヤマとも言える。
さて、踊り狂ってたハンクスは、急に踊りを止めてシリアスな表情になり、熱い視線をサリーに送って去っていくのだが、ここでも初見と再見では印象が違っていた。サリーの視点と同化したロングショットのまま、ハンクスは自らの動きを沈静化させて去っていくというのが私の初見の記憶だったが、実際は、シリアスにサリーを見つめるハンクスのミディアムショットが挿入されていたのである。ここはこんなカット割りだったっけ?と、ちょっと幻滅した。私の脳内映像のほうがオリジナルより良かった。
一度目に見たのはテレビ放映だったので、もしかしたらテレビ局の側がそのように編集したのかもしれない。いずれにせよ、ここではロングショットのままの処理のほうが、観客はサリーに同化できて、より感動も深まるのではないだろうか。
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また、「ウディ・アレンの重罪と軽罪」では、哲学教授が自殺したときの遺書に「窓から飛び降りる」というきわめて即物的な言葉しか書かれてなかったことに対して、アレンが言う台詞への字幕が、初見の記憶と再見の実像とでは正反対の意味のものになっていた。
前者では「彼は本物の哲学者だからこそ、無意味な遺言しか残さなかった(そして、それでいいのだ)」というニュアンスの字幕で、後者では「僕らのオピニオン・リーダーなんだから、もっと有意義な言葉を遺してほしかった」というニュアンスの字幕になっていた。前者のほうがウディ・アレンがいかにも言いそうな台詞だし、共感できるのだが、これも脳内歪曲だったか?
この映画については、初見は映画館で、再見はビデオだったので、ビデオ化する際に字幕翻訳を変更したのかもしれない。しかし、かりにそうだったとして、映画とビデオでは180度意味が反転してしまう訳というのもマズイのではないか。英語の台詞が聴き取れればどちらが正しいのか判断できるのだが、残念だ。DVDでは、英語字幕が出るとか日本語吹き替え音声が付いてたりするのだろうか。いずれにせよ、ちと値段が高いw。
