…って云う日…


有りません(笑)?



僕は有ります(^ω^)♫


特に、御茶漬けとか食べてる時なんかは無性に欲しくなります!


和歌山県出身なので、なおさらにそうなります(笑)!


もちろん和歌山出身じゃ無くても、そうなると思います(^ω^)


梅干し…


確信的に日本のソウルフードです(^ω^)♫



そして、そんなソウルフードの一大産地が…


和歌山県の南部(みなべ)町です🤗❣️






ちなみに、今現在(8月)はこんな感じですが…




菜の花が咲き乱れる頃には…




こんな美しい花が咲きます(^ω^)❣️



1965年、南部町が世に送り出し、今や日本中に知らない人が居ない梅干しの超ブランド品「南高梅(なんこううめ)」は…


「一目百万、香り十里」と謳われる、広大な南部梅林が生み出しました🤗❣️



でも…


南部町が今の姿になるまでには苦難の歴史が在ったのです。


『紀伊田辺藩の決断と寛容』


江戸時代…


南部町は、紀州五十五万石・徳川家の支藩である紀伊田辺藩の統治下にありました。


当時…と云うか、江戸時代を通じて山地が多い南部町は農産物の収穫が余り期待できない、いわゆる物なりの悪い土地でした。


そこで田辺藩が目を向けたのが、山地でも収穫が期待でき当時、薬や茶菓子として珍重されていた梅でした。


田辺藩は、藩を挙げて梅林の開拓を奨励。


そして出来上がった梅を、「紀伊田辺産」の焼印が押された梅樽に詰めて江戸表に出荷。


多いに藩財政を潤したのです。



しかしながら…


潤されたのは藩だけであって、農民たちは相変わらず貧乏なままでした。



そこで紀伊田辺藩は、農民救済のために決断をしました。

◎梅林の下の土地では米以外の農作物なら何を作っても良い。

◎梅林の下の土地で作られた農作物が米以外ならば、収穫の全ては農民のモノとする。


藩の寛大な政策に農民は歓喜!


結果として、梅林はケタ違いの速さで拡大!


田辺藩の寛大な決断は農民を救い、藩全体を裕福にしたのです🤗❣️



ともすれば、武士が農民を虐げていた感が強い江戸時代。


実はこんな良い話もあったのですね〜♫




こちらは、地元のお客様に頂いた紫蘇漬けの梅干し!


酸っぱい!でも美味い😋❗️


◯◯様、ご馳走さまでした🤗❣️