この前NHKで、人類進化の番組をやってました。
「猿的なところから人間になるまでの進化の系譜が直線的ではない」ところは面白かったのですが、番組や専門家の先生も「全てはたまたまの偶然」と力説するところに、すごいイラが来ました。
「宇宙の全ては偶然から生まれた」と言うのが現代の通説ですが事物に即して考えるなら、偶然からは混沌しか生まれません。
(偶然から今の世界が生まれたという考えは、アルファベットをシャッフルすることでいつかシェイクスピアの戯曲が生まれると言うようなものです)
最前線の科学者はそう言うことに気づいている(偶然から秩序が生まれるという考え方はそもそも科学的ではない)ようですが、番組に出てた専門の先生、そんなんだから、ダイソンの社長に「専門家の言うことをあてにするな」なんて言われちゃうんだって、思いました。
歴史的に見るなら「全てが偶然から生まれた」というのは、科学が古い時代の宗教的世界観から脱却した時のもので、今でもキリスト教福音派の人たちが信じているような進化論に対峙したものです。
そこでは「世界は聖書に書かれている通りに神の意図によって創造された」とされています。
「全てが偶然から生まれた」という言い方は、古い時代の盲目的信仰から脱却するために、神々を否定する必要があった時代の、なごりに過ぎません。
現代の(最前線の)科学の世界観は、「世界は確かに聖書に書かれている通りには創造されていないが、何らかの意図が働いて創造されたと考える方が理にかなっている」というものじゃないかと思います。
「全てが偶然から生まれた」と誇らしげに語る時、そう考えない人への侮蔑と自己陶酔が感じられるあたりに、イラが来ます。
他にも番組では、進化をテーマにしているのに関わらず、進化という概念と、ある生き物(種かな?)が環境に適応したり変化することの区別をつけていなかったり。
ある生き物が環境に合わせて変化してゆくことは、進化ではなく、適応です。
適応によってその生き物が生き残ったとしても、それがやがて上位の存在に進化するわけではないという事は、現在の地球上にさまざまな進化段階の生き物が存在しているという事実を見れば、明らかです。
事物に即して考えるなら、進化の系譜において、さまざまな進化段階にとどまっている生き物たちは、つまり、”それ以上には進化しなかった”という痕跡です。
進化の系譜は、生物がより高次の生き物へと向かって進んで行った痕跡であって、そこにはより高次の生き物を完成させようとする意図が、表現されている事が見て取れるはずです。
現代人が”考える”という時、多くの場合、”与えられた、あるいは得られた知識を様々に組み合わせる”、という事を意味しています。
(頭の中だけで考える、という言い方もできます)
この思考方法の場合、必ずしも事物に即する必要はありません。
けれども事物に即して考えるには、知識を一度脇に置いておいて、事物とその経過をよく観察し、新たに思考を形成してゆく必要があります。
このように考えることで、単なる知識で知ることのできない、新たなことを見出すことが出来ます。
(そもそもこのように発見された事柄の結果として、知識は生み出されてきたのですけれども…)
かつて、人体解剖学において、聖書に書かれている記述と実際の人体とが食い違っているとき、解剖において判明した事実は、無かったことにされたそうです。
(例えば肋骨の数とか)
「全てが偶然から生まれた」という現代の通説は、事実を見なかったことにしたかつての盲目的信仰のように、科学のさらなる進歩に、妨害的に作用していると、思います。
(なお、番組MCの高橋一生さんは、「何らかの意図があるように思える」派の方のようでした)