超感覚的世界の像 | 手仕事人まるひげのブログ

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 相撲と芝居、ときどき神秘学、その他日常…

興味ある人いないと思いますが、オカルトっぽい話題です。

 

 

この前「魔法使いの嫁」っていうアニメを見ていたら、もうじき死を迎える年老いた竜が出てきました。

 

竜たちは死を恐れないのですが、それは死すことで自分たちが大地に還り、ひとつになり、新たな命の苗床になるから。

 

ネイティブアメリカンの自然観、死生観に似てるなぁ、と思いました。

 

 

自然はそこに生きる者たちに、等しく、等しく死をもたらします。

 

穏やかな自然という一面のみならず、荒ぶる自然という別の一面を体験し、それが自然のひとつの姿であることを否定しないならば、自然が死を通して生命ある万物に等しく接しているのだ、と思えます。

 

自然は命あるものたちに等しく死を与え、あるいは自然は命あるものたちの生命が尽きるとき、等しく、その懐に迎え入れます。

 

このような認識にとって、自然は死を与えもたらすものですが、生命を与えるものではありません。

 

死せる自然に生命が宿ることによって、自然世界に生命の活動が、現れるのです。

 

 

この認識が持てるとき、現代の自然科学の言うところの自然とは、生命に等しく死をもたらすもののことであると思えます。

 

生命とは死せる自然の材料を用いて、まるで現身のように、自らを表現するものです。

 

現代の自然科学はその方法論上、死せる自然、物質を通してでしか世界を知ることが出来ないので、本当の意味で、生命に到達しえません。

 

現代の自然科学にとっての生命とは、どこまで行っても、人間の主観にとって生命に見えるだけの、全てが物質的な経過なのです。

 

現代の自然科学が追及している生命とは、生命そのものではなく、生命が物質を使ってどのように自らを表現しているのか、という事なのです。

 

 

とはいえそれは、「パソコンの画面に映し出される生き生きとした動画は、物理的機械的な処理によって3色のLEDを点滅させることによって生じている」、と言うのと同じことです。

 

動画はパソコンの物質的経過を通して、生き生きとしたものを表現することが出来ます。

 

生命も、死せる自然の物質的経過を用いて、その命を表現しているのです。

 

 

けれども、「動画は人間が生み出したもなのので、生き生きとした印象は見る者の主観にすぎない」、と言われてしまうかもしれません。

 

しかし、自然の中に観られる生命は人間が生み出したものではないので、そうとも言えません。

 

「自然の中に生命を観るのは人間の主観だ」、と言われるかもしれませんが、それを生命と観えるように人間を造ったのは、人間ではなく、自然です。

 

人間を主観、自然を客観と単純に定義づけたとしても、自然の中に生命を見るのは、人間の主観の中の客観です。

 

(このことは人間の中で本来の主観とそうでない客観との区別を付けず、混同しているときにのみ、ややこしくなります)

 

 

自分の中の主観と客観に区別をつけるように、自然の中の死せるものと生命を表現するものに、区別をつけることが出来ます。

 

自然全体を見る印象の中から、意識の中で、死せる物質の経過を取り去ることが出来たとします。

 

われわれが自然を観る感覚器官は、物質的経過によってつくりだされているので、感覚的な印象はすべて消え去ります。

 

けれども、自然全体の中の死と生命とを区別出来ているとき、生命の印象が、内的に残ります。

 

(哲学の用語は時々便利なもので、感覚知覚に対し、内的に感じ取られるもの全般において、それを”表象”という言葉で示します。

余談ですが、感覚と表象の対応関係を見失い、表象だけを追求するなら、世界の全てが主観であって、自分が創り出した世界であるように思えてくるので、注意が必要です。

ここでは感覚と表象の対応関係を追及したうえで感覚を取り払うことによって、単に感覚だけでは認識しえない世界領域に言及しています。

これはいわば現代哲学とは正反対のやり方を取っていると、言えるかもしれません)

 

感覚印象を全て取り払った後に残っている、感覚を超えて、内的に観える生命の世界。

 

この世界のことを、文字通り、超感覚的世界と呼ぶことが出来るのです。

 

 

 

おまけ:

超感覚的世界というのは、いわゆる霊や魂の世界とは、いくぶん異なるものです。

いわゆる霊や魂の世界は人間の本来の主観に関わる要素が大きいのですが、それは神秘学や精神科学において、元素界と呼ばれるもので出来ていると言えるかもしれません。

超感覚的認識にとって物質とは単なる物質ではなく、四大元素とも呼ばれるものから出来上がっています。

物質というのは四大元素が凍りつかせられ、圧縮されたことによって生じている、という事が出来るかもしれません。

感覚器官を通して外から流れ込んだ印象は、人間の中で、ちょうど解凍されたかのように、その命を取り戻します。

(物質的塩の結晶が、しょっぱさという生命的なものになるように)

それが自然を感じる人間の魂の中に、生き生きとしたものを感じさせるのです。

(これは先に述べた生命、生命の世界とは、ちょっと異なるものです)

この生き生きと感じさせる仕組みは物質的な肉体の仕組みと密接に関係しています。

この仕組みは人間に妄想を生じさせることもありますが、ある意味、妄想というのは、人間の中で生き返った元素霊によるものだ、という事が出来るかもしれません。

この生き生きとした印象は肉体を使って生じるので、とても現実的なものであるように、現実を超えたものであるようにさえ、感じられるようです。

(トランス状態と呼ばれる解離状態の時には、より強く、明瞭に体験できるようです)

いわゆる霊や魂の世界も、同様の仕組みを通して感じ取られるのが大半である気がします。

(とはいえそれらもある意味では、霊であると言えるのですけれども)

超感覚的世界を内的に感じ取られる感覚は、意識的に育てられ、新たに加わるものであるので、元素界と本来の生命の領域とに、区別をつけることが出来ます。