東日本大震災から2年 当時の日記を載せました | まるふく農場のブログ

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いつもまるふくブログをご覧いただきありがとうございます。

今回のブログは、自分が過去に書いた日記を載せさせていただきました。

この日記は、震災直後に書いた日記です。

長文ですが良かった読んでみてください(^_^)/



日記


今回、宮城で震災に巻き込まれました。この貴重な経験を自分に生かすために、色々書きます。文才がないけど、ドンマイ。

3/11(金)
【地震発生】
地震発生。それは、住んでいる寮の自分の部屋で、録画してあった笑点を見ているときであった。

まじ笑えねー

ニュースを見たら、14:46だったみたいだが、あんまり時間は覚えていない。
地震の揺れは、まじでやばかった。部屋の蛍光灯が落ちてきて、押し入れの中でも座っていられないくらいだった。建物がくずれるかと思った。部屋の壁には、亀裂が入った。聞いた話では、震度7らしい。電波が入らなくなる前に、かーちゃんにはメールしなきゃと思って、地震で揺れている最中にメールをしといた。


【地震直後】
地震の揺れが収まったが、防火扉が閉まっていたので、外にはすぐにでれなかったが、なんとかこじあけて外にでた。そして、津波警報が鳴り響く。

やばい、貴重品を部屋に忘れた。と気付いて、急いで部屋に戻る。
その時は、携帯と財布以外は、持っていかなかった。

一旦、避難して、あと荷物を取りにいけばいいや~程度にしか思っていなかった。


【避難】
近所のおじさんが「津波がくるから逃げた方がいいよ」と言ってくれたが、こんなとこまでこねーべと正直思っていた。今考えても甘かった。
だが、近所の人が、どんどん車で逃げていく光景をみて、これはやべーかもと思った。寮の前にいたのだが、逃げていく車に素通りされまくった。

歩いて避難しようと思っていたら、やっとこさ、近所のおばちゃんが声をかけてくれ車で途中まで乗せてくれた。
そして、女川一中という、比較的高いところにある場所に避難した。


【津波襲来】
多分、津波がきたのは、地震から15分弱。もっと短かったかかったかもしれないし、長かったかもしれない。

が、すぐにきた感じがした。
途中まで、おばちゃんに車で乗っけてもらわなければ、命がなかっただろう。

みんなと会うことは、もうなかったぜ。

安全な場所から、津波に飲み込まれる女川の町を見てたが、家、車、電車、船など、すべてを流されている光景は、言葉に表すことができない。こんな光景はみたことがない。まるで、映画。

津波は、3回きたらしいが、2回しか確認していない。余震もまだ続いてて、そして何より雪が降ってきて寒かったので、とにかく建物の中に入りたかった。

女川第一中学、下水処理場?、総合体育館の順に歩いて移動した。
下水処理場で、ヤンキー風のにーちゃんから、色々話しを聞いた。

聞くところによると、総合体育館に避難するのがいいとのこと。
そして、総体に移動し、3人のチームメイトと出会うことができた。正直、ほっとした自分がいた。


【お手伝いなどなど】
ガラスが散らばっているとのことで、総合体育館は、すぐに入ることができなかった。
なので、まず、テントを立てる手伝いをした。そして、火の燃料の準備にとりかかった。まず、女川中で、燃料にする教科書など燃やせるものを運ぶ仕事を手伝った。遺体を安置所に運んだりもしました。


【夜】
夜になった。今度は、木の看板をぶっ壊して燃料にする作業をした。
道具がなくて、ちょーつかれた。でっぱっている釘でケガをしそうになった。
そして、あらかた作業を終了して、やっと水にありつくことができた。
自動販売機をぶっ壊していたので、それを配給したり、貯水槽の水を配給したんだろう。

体育館に人がごったがせしていて寝るスペースがなく、チームメイトの車に寝ることにした。
22時くらいには、車で寝始めたが、寒さのあまり、1時間くらいしか寝れなかった。。。。。とにかく寒かった。

ちなみに、夜空がむなしいほど最強にきれいだった。


3/12(土)
朝5時30分からの活動だったと記憶している。

体育館→救助→体育館→町立病院→高政(かまぼこの会社)→セブン→体育館→女川第一小という流れだったと記憶している。とにかく何かがしたかった。


【救助】
チームの関係者で、避難しきれていない方たちがいるというので、救助しに行くことになった。
途中、約1日ぶりの食事にありつけた。助けに行くなら、大変だから、頑張ってという意味をこめてだと思う。
家が無事だった民家で、ごちそうになった。激マックスお腹がすいていたこともあり、目玉焼が、最高においしかった。
普段なら、食べないホウレンソウも、バリバリいただきました。
感謝という言葉以外ないです。泣きそうになった。
そして、がれきで道が通れないので、草でぼうぼうの山を登ったりし、やっとのことでたどりついた。

無事に体育館まで連れそい、救助は完了した。
荷物がまじ重くて、いい筋トレになった。

救助に行ってくれたからと、おばちゃんに長靴とくつ下とジャンパーを貸りた。

これが史上最強に役に立ちました。
結局、自宅まで持ってきてしまったので、いつか返しにいかなければならないと思っている。


【セブンイレブン】
セブンイレブンでいい気分になった。
あまり食糧はなかったが、一時間並んで買えたのが、ブラックサンダーのアイスとわさびのりだった。

まじ感激した。お菓子がこんなにおいしいとは思わなかった。ここでも泣きそうだった。
あと、財布を流されたチームメイトのために、おごってあげたんだってばよ。

そして、新たな避難場所

女川一小で合流したチームメイトから、おにぎりと、厚揚げをいただいた。周りの人に見られないように、こそっと食べた。罪悪感をすごく感じた。

夜がものすごーく長かった。とにかく寒い。

たった1枚の毛布でもありがたかった、感動した。

でも、この日も寒さのあまり寝れなかった。
ちなみに、トイレは、激臭がした…


3/13(日)
朝6時から活動開始。ダンボールを運ぶのを手伝った。自分の寝ている多目的教室に、毛布やダンボールを運んでいるとき、どこからともなくぼそっと聞こえてくる、「いいな~」という声は、心苦しかった。というか、怖かった。

まだこの日まで家族に自分の安否を連絡できなかったので、

少しでも早く実家の横浜に帰らなきゃという思いがあり、女川~仙台まで歩くのを決意した。
あとから聞いたが、65キロくらいあるらしい。。。。。
とにかく歩いた?
石巻でのどが渇きすぎて、川の水を飲もうとしたが、さすがに断念した。
歩きまくっていたら、途中で飲み物をくれたガソスタのおじさんと、

「泥だらけだけどよかったらどうぞ」とポカリをくれたセブンイレブンのにーちゃん、

途中助けてくれた皆さんに本当に感謝してます。



歩いている最中、歌を歌ったり、竹村芭焦とかいって自分を洗脳したり、なんで俺はこんなことしなきゃなんねーんだ絶対に負けないとか叫んだり、とにかく歩いた?よく町中にいるよね。ひとりごといったり、歌歌ったりしているおじさん。

あとは、もう怖いものなんかない、早くサッカーしたいよ~
とか言っていた気がする。

冠水してしまった道路を通ったり、がれきが残っている道や、山を越えたりして、

やっと仙台についた。


仙台市内に入り、仙台駅近くの満喫で一泊!
ドリンクバーのボタンを押したら、飲みものがでてきた。当たり前のことにびっくりした。

携帯のメールを受信したら、50通近かった。本当にびっくりした。
ありがとうございます。
お礼の電話やメール、掲示板の書き込みなど、みんなと連絡ができて本当によかった!
生きててよかった。
1階のフロアは、俺の汗と涙のにおいでいっぱいだっただろう。ごめんね、満喫。
満喫でやっと落ち着くことができた。あと、落ち着いたら、なぜか全身身震いした。

スラムダンクを読んだ。


3/14(月)
電車が動いてなかったので、福島までタクシーで移動し(2萬5千円)、福島までまじ無理を言って、親に迎えにきてもらいました。帰り道のとんかつ定食も忘れてはならない。
これから、親孝行をしなければ

今、思い返してみても、衝撃な体験でした。
人に感謝して生きるということを学びました。

未来の自分へ
もしかしたら、もうこの世にいなかったかもしれないね。こんな貴重な経験をしたんだから、人生どんな困難があってもくじけてはダメだよ。がんばれ。

最後に
まだ闘っている人もいると思います。自分も自分でできる何かをしていきたいと思います。

がんばれ日本!