日々のさまよい -2ページ目

日々のさまよい

昔や今のさまよいなどなど。

神前神社を参拝させて頂いた後に、麓の神前(こうざき)海岸へと降りました。

 

 

 

 

この小井戸口山の山頂に、神前神社が鎮座されています。

左向こうへと続く海岸の先っちょが、神前岬。

 

ちなみに、この海岸側から神前神社へとつながる道は、調べたところ無いようでした。

神前神社へは、国道42号の日の出橋東の交差点から東へ真っ直ぐ、愛受院火葬場の敷地を通り抜けると辿り着けます。

 

 

 

 

なお愛受院とは、1200年前に行基が開いたと伝えられる二見町江の古刹、潮音山大江寺の別院で、この別院にてペット葬を専門とされています。

真言宗醍醐派 潮音山 大江寺

 

神社へお参りするのに火葬場を通り抜けるというのも、ちょっと気持ち的に抵抗ありましたから、なかなか神前神社へはお伺いしにくかったのですが、今回は思い切りました。

 

まあ、行ってしまえば、ちゃんとしたお寺の施設ですし、どうってことありませんでしたけれど(苦笑)

 

 

 

 

天気も良くなり、何しろ夏至で気温が低いわけではありませんでしたが、何やら寒そうなサチエ。

少し風が強かったかも知れません。

 

この海岸の先、神前岬に「潜島(くぐりじま)」という海食洞門があることを、堤防にあった案内看板で初めて知りました。

 

 

 

 

次の機会には、潮の干満を調べておいて、ぜひとも伺ってみたいと思っています。

 

神前(こうざき)海岸と潜島(くぐりじま)
Kozaki Coast Kugurijima
神前海岸は海水や磯波の激しい侵食によってできた岩石海岸で、各所に急峻な海食崖が発達しています。崖面にみられる断層や節理と呼ばれる天然の割れ目などの弱帯には、立石崎の天の岩屋を始めとする海食洞が形成されており、特に神前岬の潜島は唯一の海食洞門を成しています。
この潜島は神格化されており、旧暦6月1日頃になると村民総出で注連縄を作って洞門へ懸け替え、家内安全を祈願しています。

潜島はこの先800mですが大潮の干潮時でないと行くことができませんので潮時にご注意下さい。

  神宮巡々2/神前海岸の潜島(伊勢市二見町松下)

 

 

 

 

 

こちらは振り返って、二見興玉神社の方向。

写真を拡大すると、音無山の右下突端に夫婦岩が見えています。

 

 

 

 

いつもは、あちら側からこちら側を眺めているんだな〜と、実感されました(笑)

 

 

 

 

 

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今回、ようやく初めて皇大神宮摂社である二見の神前神社へとお参りさせて頂きました。

御同座の末社は、許母利神社と荒前神社となります。

 

これにて、ついにお伊勢さん125社まいりの二見めぐりが満願となりました(笑)

 

 

 

 

 

 

麓から地道を登り始めて、この石橋を渡ると、綴れ織りの石段が続きます。

 

 

 

 

 

 

こんな感じの石段が、右へ左へと繋がって行きます。

 

 

 

 

 

 

そうして、辿り着きました。

眺望は一切ありません(苦笑)

 

 

 

 

 

 

神前岬の自然と人々をお見守りされながら、ひっそりと清楚に佇まれているありがたいお姿です。

 

 

 

 

 

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二見から外宮、月夜見宮、猿田彦神社、恵利原の水穴と巡って伊雜宮を目指しますが、途中いつも看板を見て気になりつつ訪れなかった「おうむ岩」へ行ってみました。

 

相変わらず、あまり予習をしないままの突貫です(苦笑)

 

 

 

 

 

ともあれ展望台へ。

来た方向を眺めます。

 

 

 

 

伊雑ノ浦方面。

田植えが終わったばかりの水田が鮮やか。

 

 

 

 

 

この巨岩の上に展望台があります。

 

 

 

 

少し下ったところに、倭姫機織場。

ただこの洞穴、機織りにはちょっと狭いような…(苦笑)

 

 

 

ちなみに、「呼べばこたえる おうむ岩」とのことですが、私たちには音の反響が聞こえませんでした。orz

その日によって、気圧とか湿度とか、何か関係あるのかも知れません。

 

詳しくは↓こちらで。

伊勢志摩きらり千選/鸚鵡岩と展望台

 

 

 

あと、さらに自分へガックリなんですけど、「おうむ岩」とはこの岩山全体のことかと思っていたら、実は鳥居のある特定の大岩をそのように呼ぶようでした。

祠には玉依姫命を祀られているそうで、それも知らないまま…

 

 

ということで、写真も撮っていませんので、こちら↓をご参照くださいませ。

 

  Wikipedia/鸚鵡石

 

 

 

 

 

 

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とび石に行った日は夏至。

その朝、二見の日の出はこんな感じでした。

 

 

 

 

まあ、いつもながらでしたけど、今年は特に、ちらりとも太陽の光は雲間から洩れ見えませんでした(泣)

ともあれ、雨が降らず寒くなかったので助かりましたけど…

 

そこで朝陽への遙拝を早々に諦め、堤防の上を歩いて駐車場へと向かいます。

今年はいつもよりチョット遅刻してしまい、車を鳥居前に駐められなかったため、少し離れた二見浦海水浴場の駐車場へと戻りました。

 

なので久しぶりに、せっかくですから駐車場スグ近くの御塩殿神社へと参拝させて頂きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

それから外宮へ移動すると、ようやく夏至の太陽が、お顔を見せてくださってました(笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ご無沙汰しております。

皆さま、お元気にお変わりなくお過ごしでしょうか?

 

 

さて、お久しぶりなのに恐縮ではございますが、私の仕事をひとつ、ご紹介させて頂きたいと思います。

 

昨年8月、祖父の代から我が家がお世話になって来たお寺さんのご住職より、ウェブサイト製作のご依頼を頂戴いたしました。

 

それから丸一年、ようやくこの7月に晴れて公開となりましたので、ここに謹んでお知らせを申し上げます。

 

 

 

浄土真宗本願寺派 仏光山如来寺

 

 

 

その昨年8月といえば、このブログ更新が止まった時期ですね(苦笑)

 

実は、このお話しにより新しいことへチャレンジしてみようと考えてしまい、初めて自分一人で全ての作業をやらせて頂きました。

 

そのため、色々と勉強したり調べたりしなければなりませんでしたから、ブログの方はやむなく停止とさせて頂いたような次第です。

 

 

とはいえ、いまだに何かと多事多端な状況で、しばらくはブログへ戻って来れそうにありません。

 

まあ、近況報告みたいなことですけれど、よろしければご笑覧くださいませ。

 

それでは〜〜\(^_^

 

 

 

 

 

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神御衣祭の荒妙を奉職する神麻続機殿神社〜2016冬至伊勢行(16)←(承前)

 

 

 

次は瀧原、という進行でしたが、その前に先の機殿神社について少し追記させて頂きます。

 

前回と前々回、2つの機殿神社にはそれぞれ所管社の末社八所があるとのことながら、境内には6社しか見当たらず、何でだろ〜と申し上げておりましたけれど、実は本殿の両脇に残りの2社があるとのこと、ハロさんからコメントで教えて頂きました〜

 

1. 無題

神殿の玉垣の中、神殿の両側にお社があったような…

写真を拡大すると、何となく見えるような気がします(^-^)

ハロ 2017-07-19 10:39:38

2016冬至伊勢行(16)コメント

 

 

確かに、自分の写真を拡大して見ると、そのような姿がありますね。

どうして気付かなかったんでしょうか?(泣)

 

 

  

 

 

 

ともあれこれで、機殿神社末社八所の所在がすべて分かりました。

ハロさん、ありがとうございます!

 

そこで折角ですから、その八所の祭神が機殿鎮守御前神(はたどののまもりのみまえのかみ)と十把一絡げにされている内訳を、考えてみたいと思います。

 

 

まず、境内御敷地の略図を作ってみましたのでご覧ください。

 

神服織機殿神社

 

左の本殿前にある2社は上座の方が少し大きく、右の4社のうち最下座の1社は少し離れて方向が他と違う上座の方へと向いています。

 

 

 

 

神麻続機殿神社

 

左の本殿前にある2社は同じ大きさで、右の4社は全て同じく境内の内側を向いていますが、上座の1社だけ少し大きくなっています。

 

 

 

 

このように両社とも末社八所の数と配置は同じであり、社の大きさや向きが微妙に違っているだけです。

そこでこれらを大きく区分してみますと、本殿両脇の垣内2社と、垣外の左2社+右4社、となります。

 

この区分における決定的な差異=格の違いは何かと考えてみますと、垣内の神は元々から人間を超えた存在であって、垣外の神々は元々人間であったのではないか、と仮定してみます。

 

 

ここで、前にご紹介した神御衣奉織始祭の写真をご参照ください。

神御衣奉織始祭

神宮/神宮について/神宮の御料と御料地/神様の衣「神御衣」

 

 

最前列で神官がひれ伏し、その真後ろと右後方で合計3名の神官が奉斎しています。

その最後尾、黒い背広で座っているのは、祝(ほうり・はふり)と呼ばれる祭礼のお世話役で、現地氏子方々の代表者です。

そして左横には、織子さん4名が並んで参列されています。

 

この写真を見ると、何となく垣外末社の配置に似ているような気がしますけれど、どうでしょう?

 

その思いつきのまま申し上げてみますと、御敷地の右に4社並んだ末社が織子さんたちのように思えます。

そして御敷地の左に2社並んでいる上座の1社は服部(はとりべ)の長と麻続部(おみべ)の長、もう1社はそれぞれの祝(ほうり・はふり)。

 

いかがでししょう?

さらに、末社それぞれの微妙な違いについても妄想してみますと…

 

神服織機殿神社

右4社のうち1社だけ少し離れて上座を向いているのは、赤引の絹糸を三河国から調達する人、もしくは、その三河国の絹糸生産者そのものを祀っている?

左の2社で上座の1社が服部の長だとすれば、やはり昔から絹の方が麻より高価なため、そこは麻続部の長より少し大きくしておいた、とか?

 

神麻続機殿神社

右4社のうち上座の1社だけ少し大きいのは、麻続部はその麻を栽培するところから担っていましたので、単に機織りのみならず、その栽培をも含めた全現場の棟梁を祀っているから?

 

そして、格上の垣内には、神御衣奉職の主役ともいえる人間ではない神々が鎮座するはずで、それならば本殿に祀られている機殿鎮守神とは、絹の神と麻の神のことであり、両脇の末社には、機殿の神と高機(たかばた)の神、それぞれが祀られているのではないか、などと思ってしまうところですが…

 

まあ、本当のことは分かりませんので、次に機会があれば現地の方へ質問してみたいと思います。

 

 

ちなみに、この本殿両脇の垣内末社は、かつて八幡宮と春日社だったそうです(笑)

寛政9年の『伊勢参宮名所図解』には、左右に八幡宮と春日社の社殿を配置して三社信仰の形態であったことが記されている。明治初期の『神三郡神社参拝記』では、左右の社殿を東西宝殿と記している。

Wikipedia/機殿神社

 

けれど、アマテラスを皇祖神として国家神道を推し進めた明治以降、さすがに神宮内で八幡宮や春日社を祀ることはできなかったため、祭神を入れ替えざるを得なかったんではないでしょうか。

 

 

 

あと、機殿で実際に奉職される方は、かつて男性もおられたとのことですが、今となっては女性ばかりかと思っていましたけれど、まだまだ男性も奉職されているようです。

 

日本の三重県松阪市井口中町にある皇大神宮所管社神麻続機殿神社で行なわれる荒妙(あらたえ、麻布)の奉織。本人が撮影。

Wikimedia Commons/Kan-omi-hatadono-jinja 14.JPG

 

両機殿で御衣(おんぞ)を奉職する物を古くは人面、織子といった。人面は男子の、織子は女子の織工をいう。

『伊勢神宮』櫻井勝之進(学生社/2013年)

かつては奉織工を「人面(にんめん)」と呼んだが、現在は「織子(おりこ)」と呼んでいる。

Wikipedia/機殿神社

 

 

ということで、以上、機殿神社に関する追記でした。

 

 

 

 

そして、神麻続機殿神社を13:00ごろ出発し、50分ほどで奥伊勢の瀧原宮へと到着しました。

しかしながら、またまた瀧原でも写真を撮っていませんでしたので、下のようなご紹介とさせて頂きます。

 

 

瀧原宮

 

 

 

御祭神:瀧原宮(たきはらのみや)天照大御神御魂(あまてらすおおみかみのみたま)

瀧原並宮(たきはらならびのみや)天照大御神御魂(あまてらすおおみかみのみたま)

 

瀧原宮、瀧原並宮とも天照大御神の御魂をお祀りし、古くから「遙宮(とおのみや)」として崇敬を集めています。瀧原宮は二つの別宮が並立しており、また御船倉を有するなど他の別宮と異なる点が多々あります。

神域内の樹齢数百年を越える杉の木立に囲まれた参道と谷水の流れを利用した御手洗場は内宮を連想させ、神代の昔に誘います。

お参りは瀧原宮、瀧原並宮の順にされるのが一般的です。

神宮/内宮(皇大神宮)/別宮 瀧原宮

 

 

瀧原宮はいつも、私たちにとって伊勢参りの〆となります。

いずれ朝一番にも来てみたいと思いながら、いまだ果たせませんけれど、それはさぞや清々しいことだろうと、いつか来る日を楽しみにしています。

 

あと、ここから車で10分ほど行くと、宮川のほとりに皇大神宮摂社の多岐原神社(たきはらじんじゃ)があります。

瀧原宮へ訪れた際、時間に少し余裕がある場合はそちらへも足を運ぶのですが、この冬至行では残念ながら無理でした。

 

 

多岐原神社(たきはらじんじゃ) 皇大神宮摂社 

祭神:真奈胡神(まなこのかみ)

 

祭神は倭姫命が宮川を渡るのをお助けした土地の神、真奈胡神。地元では祭神から「真奈胡さん(まなこさん)」といい、信仰のあついことで知られる。ここから三瀬坂峠(みせざかとうげ)を越えて瀧原宮の方へ出るのが熊野古道(約1時間)である。社頭には常夜燈2基があり、紀州藩が享保甲辰(1724)に建てた禁殺生石がある。宮川本流の右岸にあって、社域は山水の美を兼ねそなえた地である。

お伊勢さん125社まいり/滝原めぐり/多岐原神社

 

 

この多岐原神社は上の説明でもあるように、山水に囲まれとても静かな美しい杜に鎮まっていますからお奨めです。

今まで何度か訪れましたけれど、一度として他の誰かに遭遇したことがありません。

 

ところが今年の夏至、久しぶりに訪れてみると、いつも車を駐めさせて頂いていた道の角に、運転手さんの乗ったタクシーが停まっていました。

あれ? 珍しく他に参拝客がいるのかな、と思い多岐原神社へ進んでみると、ちょうど月次祭が行われている所でした。

 

いつもシンと静まりかえった杜の様子しか知りませんでしたので、とても有り難く後ろの方で勝手ながら参列させて頂きました。

また、お祭りが終わって神官がタクシーで引き上げてから、背広を着た祝(ほうり)の方が片付けの合間に色々とお話し相手になって下さり、これもまた楽しい一時でした。

 

 

2014夏至伊勢行(7・最終回)恵利原の水穴〜瀧原宮

 

 

 

ようやくこれにて、冬至の伊勢行は完了です。

後はここから西方の三輪へと太陽を追って一気に進み、夕陽を遙拝して満願となります。


ともあれ、ここ瀧原までに至った伊勢行2日目の行程と地図をご参照ください。

 

▼12月21日(水・冬至) 夜明06:21/日出06:56(内宮)

04:00内宮P…饗土橋姫神社…05:00内宮07:00…津長神社…大水神社…冬至祭…07:30宇治橋(日出遙拝)08:00→08:20朝熊神社・朝熊御前神社…鏡宮神社09:10→09:40へんばや本店(へんば餅+赤飯昼食)10:10→10:30斎宮歴史博物館11:30→11:50神服織機殿神社12:20→12:30神麻続機殿神社13:00→13:50瀧原宮14:40→

 

 

 

 

 

そうして辿り着いた三輪は桧原神社での夕陽。

滑り込みで間に合った、かな?(苦笑)

 

写真をヨコ位置でしか撮っておらず、それだとあまり大きく見て頂けませんので、↓トリミングしてみました(泣)

 

 

いつもなら、もちろん大神神社の二の鳥居から各社を参拝して後、桧原神社へと入るのですが、この時はそのような余裕がまったくないまま、瀧原から桧原神社へと直行してしまいました。

 

 

 

 

少し落ち着き、鳥居の中から夕陽を望みます。

 

春分と秋分には、これよりもっと右側、真西の方向に聳える二上山の2つある頂上の間に夕陽が沈みます。

しかし冬至に太陽が沈み行く山は、いま見えている葛城山となります。

 

 

 

 

残照に映える桧原神社へと参拝。

 

アマテラスはかつて、ここから出発して伊勢へと遷りました。

そのため私たちはその行程を遡り、太陽の生滅とその運行とともに伊勢から出発しこの三輪へと至ることで、何かしらひとつの寿ぎになるのではないか、などと思っています。

 

 

檜原神社(ひばらじんじゃ) 大神神社摂社

祭神:天照大御神(あまてらすおおみかみ)

この地は、崇神天皇の御代、宮中よりはじめて、天照大御神を豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託されてお遷しになり、「磯城神籬(しきひもろぎ)」を立て、お祀りされた「倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)」であります。

大御神のご遷幸の後も、その御蹟を尊崇し、檜原神社として、引き続きお祀りし、「元伊勢(もといせ)」と今に伝えられています。

境内には、昭和61年11月5日、豊鍬入姫命を祀る豊鍬入姫宮(とよすきいりひめのみや)が鎮斎されました。

万葉集等に「三輪の檜原」と数多く詠まれ、山の辺の道の歌枕ともなり、西につづく檜原台地は、大和国中を一望する絶好の地であります。

大神神社/檜原神社

 

 

 

瀧原から、この三輪への行程はこのような感じです。

 

▼12月21日(水・冬至) 日入16:50/日暮17:25(桧原神社)

瀧原宮14:40→高見峠→16:40桧原神社17:10→今西酒造本店(新酒)→17:40大神神社[祓戸社…拝殿…己の神杉…社務所(大祓人形申込)…磐座社…狭井神社…薬井戸]19:30→

 

 

このように、桧原神社でようやく満願を迎えたのが夕方5時過ぎ。

 

そこからともあれ今西酒造本店へと向かい、例年通り年末年始用に絞りたて原酒「鬼ごのみ おり酒」を手に入れようとするも、何と完売済み!?

 

「え〜、そんなん初めてや〜ん、まだ12月やのに〜〜」と、女将さんに泣きを入れるも、

「そやねん、今年、大人気でもう予約分しか残ってないんよ〜、ゴメンね〜〜」とのこと。

 

とはいえ、実のところ11月の新酒時期、すでに何本か送って貰っていたので、全くありつけなかったわけではありませんけれど、そちらはアッという間に完呑済み(号泣)

 

そこで、女将さんから、

「あと2本だけ、これ残ってんねんけど、どう?」

とおもむろに、コッソリ何だか上等そうな一升瓶が…

 

まあ、ともあれ、そのお奨めを頂くと、次にやっと二の鳥居前に到着しました。

 

そこから、もはや夜の帳が下りてしまった大神神社の闇を搔い潜りながら、クルリと要所を参拝してまわり、ようやく家路につくことができました。

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 

※さて、今回をもってしばらくブログをお休みさせて頂きます。

今のところ再開の目処は見えませんけれど、いずれまた、ヨロシクお願い申し上げま〜す。

\(^_^

 

 

 

 

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神御衣祭の和妙を奉職する神服織機殿神社〜2016冬至伊勢行(15)←(承前)

 

 

 

 

神麻続機殿神社(かんおみはたどのじんじゃ)へ到着しました。

 

ほとんど、前の神服織機殿神社の様子と同じですが、当然ながら木々は違っていますので、その差異を堪能できるほど樹木に詳しくなってみたいものと思いつつ、今はまだ私にとって、豚に真珠って感じでしょうか(泣)

 

こちらでは、この細い参道に接続した道路が広かったため、そちらへ車を路駐させて頂きました。

もちろん、駐車禁止の標識はありませんでしたから(苦笑)

 

 

 

 

こちらの杜の方が、いくぶん荒々しい感じかも知れません。

 

 

 

 

同じく、洞窟のような参道です。

 

 

 

 

目を懲らして見ると、こちらの参道は少し屈曲しています。

 

 

 

 

来た方を振り返りました。

やはり、胎内へ参入、って感じですね。

 

 

 

 

こちらも立派な巨木。

 

 

 

 

やはり空の光は木々に遮られ、参道は薄暗いままです。

 

 

 

 

神宮なので注連縄はありませんけれど、その前に祭壇のような四角く刳り抜かれた岩が置かれていますから、ご神木かと思われます。

 

 

 

 

参道の屈曲した先へと進みます。

 

 

 

 

榊でしょうか?

たぶん自生ではなく、植えられているのかと思えますが…

 

 

 

 

そして、御敷地へと辿り着きました。

今度は先に、本殿と八尋殿を一緒に撮らせて頂きました。

 

 

 

 

鳥居をくぐって御敷地へと参入。

 

こちらの御敷地には、つっかえ棒で支えられた巨木が立っています。

神服織機殿神社にはなかったものですが、もしかしたら、そちらにも元々あったかも知れません。

それほどまで意図された相似関係が、これら両社にはあると思いますので。

 

 

 

 

ともあれ、今回は探索を後にして、先に本殿からお参りをりさせて頂きます。

 

なお、サチエがずっと猫背で下を向き、元気なさそうに見えるのは、足元の白石の中からお気に入りを探しているからです(笑)

 

 

 

 

こちらは境内奥を望み、末社八所のうちの四社。

 

けれども、ここ神麻続機殿神社では四社が横並びで、左の一社だけ少し大きくなっています。

どうにかその意味を知りたいと思いますけれど、どうなんでしょう…

 

 

 

 

そして八尋殿。

こちらでは、神御衣祭(かんみそさい)に供進される荒妙(あらたえ・麻布)が奉職されます。

 

 

 

さてここで、斎宮歴史博物館1〜2016冬至伊勢行(11)にて申し上げていました、これら2つの機殿神社は斎宮との関係に重要な意味があるということについて、少しご説明してみたいと思います。

 

 

まず、日本神話における機殿の意義とはどのようなものであったか、振り返ってみますと、こんな↓シーンが思い浮かびますね。

 

早稲田大学図書館古典籍総合データベース『八頭ノ大蛇』チヤムバレイン[編述]鮮斎永濯[画]

 

 

この、まるで荒くれた山賊みたいに暴れている悪党は、言わずと知れたスサノオで、場所はアマテラスの機殿です。

ですから、怯えた3女性のうち左の黄色っぽい服を着たのがアマテラスかと思われます。

 

ただし、この挿絵は海外向けに日本神話を紹介する冊子にあったものですから、ちょっと記紀神話と違っており、本当はスサノオ自ら機殿の中で暴れたのではなく、屋根を破って皮を剥いだ馬を放り込んだという、さらに禍々しいお話しです。

※その鬼気迫る酷たらしい惨状を、この写実的なイラストで海外へ紹介するには、いくら何でもさすがに憚られるものがあったんでしょうね(苦笑)

 

 

そこで、古事記と日本書紀での記述を、現代語訳で引用させて頂きますとこのようなことです。

 

天照大御神(アマテラスオオミカミ)は神聖な機織り小屋で神にささげる服を織らせていました(原文:天照大御神、忌服屋に坐して、神御衣織らしめたまひし時)

スサノオはその小屋の屋根をぶち破って、逆に皮を剥いだ馬を放り込みました。すると機織りをしていた女性が驚いて、女性器を機織りの部品の一つ(梭=ヒ)で突いて死んでしまいました。

日本神話・神社まとめ/古事記/天照大神と素戔嗚尊/素行不良が過ぎる

 

(前略)

衣服を織る齋服殿(イミハタドノ)にアマテラスが居るを見ると天斑駒(馬)の皮を剥いで、建物の屋根に穴を空けて投げ入れました。するとアマテラス驚いて、機織りの機械の部品の「梭(ヒ)」で傷を負ってしまいました。

(後略)

日本神話・神社まとめ/日本書紀神代上/第七段本文

 

(前略)

稚日女尊(ワカヒルメ)が齋服殿(イミハタドノ)で神の服を織っていました。スサノオはこれを見て、斑駒(マダラコマ=マダラ模様の馬)の皮を逆に剥いで、建物に投げ込みました。 

ワカヒルメは驚いて、機織り機から転げ落ちて、持っていた機織りの道具の「梭(ヒ、もしくはカビ)」で体を突いて死んでしまいました。

(後略)

日本神話・神社まとめ/日本書紀神代上/第七段一書(一)稚日女尊の死と日矛と鏡

 

※稚日女尊(ワカヒルメ)とは、アマテラス自身、アマテラスの幼名、妹神、御子神などとも考えられている神ですから、これもアマテラス、もしくはその分身と捉えて差し支えないと思います

 

(前略)

日神(ヒノカミ)が織物の神殿に居る時に、斑模様の馬を生きたままに皮を剥いで、その神殿に投げ込んでしまいました。

(後略)

日本神話・神社まとめ/日本書紀神代上/第七段一書(二)-1日神が臭くなる

 

 

ということで、これらにて注目したいのは、スサノオの蛮行や誰が死んだか怪我を負ったか今回さて置き、何よりアマテラスが機殿にいた、ということです。

 

特に古事記では「神聖な機織り小屋で神にささげる服を織らせていましたとされていますから、アマテラスは神への奉斎品を自らの機殿で監督し奉職していた、ということになり、それによってアマテラスと機殿と斎王、これらの強い関係が見えて来ることになります。

 

つまり、アマテラスは高天原を統治する最高神であるとともに、自己より以上の神々を祭祀する司祭者でもあり、さらにはその祭祀に用いる奉斎品の奉職者であって、それら天上における司祭と奉職の任を、次の天下において嗣いだ者が斎王である、ということになると思います。

 

そしてもちろん、斎王による司祭の場は神宮ですが、もし奉職も行っていたとすれば、その場は当然ながらこれら2つの機殿=八尋殿であったということになります。

そのため、斎宮は伊勢の地に創建され、さらに機殿は八尋殿として斎宮の近くに設営された、ということになるのだろうと考えられます。

 

そのような斎王のつとめとして、司祭では年に3回、6月と12月の月次祭と9月の神嘗祭で神宮へと赴かなければなりませんでしたけれど、他に機殿での奉職があったとすれば、それよりもっと頻繁に八尋殿へと行き来しなければなりませんから、機殿は斎宮の至近でなけらばならなかったことになります。

 

そのため、前回にも引用しましたが、

機殿の由緒は古く、皇大神宮御鎮座当時に、五十鈴川のほとりに宇治の機殿を建て、天上の儀式にならって大御神の和妙を織ったことが伝えられ、その後天武天皇の御代に紡績業の盛んな現在の地に移されたようです。

神宮/神宮について/神宮の御料と御料地/神様の衣「神御衣」

 

ということで、機殿はもともと五十鈴川の宇治にあったということと、初期の斎宮=磯宮(いそのみや)もその近くとなる五十鈴の川上にあったことが符合します。

斎宮の起こり

(前略)

垂仁天皇の時代、豊鍬入姫の姪にあたる皇女倭姫命が各地を巡行し伊勢国に辿りつき、そこに天照大神を祭った。この時のことを『日本書紀』垂仁天皇紀は「斎宮(いはいのみや)を五十鈴の川上に興(た)つ。是を磯宮(いそのみや)と謂ふ」と記し、これが斎王の忌み籠る宮、即ち後の斎宮御所の原型であったと推測される。

(中略)

天武天皇の時代に正式に制度として確立し(『扶桑略記』は天武天皇が壬申の乱の戦勝祈願の礼として伊勢神宮に自らの皇女大来皇女を捧げたのが初代とする)、以後は天皇の代替わり毎に必ず新しい斎王が選ばれ、南北朝時代まで続く制度となった。

Wikipedia/斎宮/1斎宮の起こり

 

との通り、天武天皇の時代に諸制度が確立し、斎宮が今に残る遺跡辺りへ大々的に新設されると、それに伴い機殿も斎宮近くに移された、ということではないかと思われます。

 

 

下に地図を再掲載いたしますので、機殿↔斎宮↔神宮の位置関係を今一度ご確認ください。

 

 

このように、アマテラスと機殿と斎王、これらの密接な関係が、私には斎宮理解にとって最重要なポイントのひとつと思われてなりません。

 

しかし、なぜか斎宮歴史博物館ホームページや櫻井勝之進『伊勢神宮』などではこの点へ触れられていませんし、明和町の日本遺産「祈る皇女斎王のみやこ 斎宮」にも2つの機殿神社が入っていませんから、何か私に勘違いがあるのかも知れませんけれど、いかがでしょう?

 

 

 

 

参拝の前に、サチエはまだお気に入りの白石を探しています。

 

 

神麻続機殿神社(かんおみはたどのじんじゃ) 皇大神宮所管社 

祭神:神麻続機殿鎮守神(かんおみはたどののまもりのかみ)

祭神は神御衣祭(かんみそさい)に供進される荒妙(あらたえ・麻布)を奉職(毎年5月と10月の上旬に神職が参向する)する御機殿の鎮守の神、神麻続機殿鎮守神。御機殿は八尋殿(やひろでん)といい、向かって右の萱葺の建物である。社地には小社殿ながら、所管社の神麻続機殿神社末社八所、祭神は神麻続機殿鎮守御前神(かんおみはたどののまもりのみまえのかみ)がご鎮座されている。上機殿(かみはたどの)とも呼ばれている。 

お伊勢さん125社まいり/斎宮めぐり/神麻続機殿神社

 

 

 

 

サチエを待つ間、境内の奥を望みます。

 

八尋殿の前に、神服織機殿神社にはなかった御敷地の巨木。

末社の並びも少し違って、気になります。

 

 

もし、アマテラスがこのような天上の八尋殿にひとりだけで神御衣を織っていたとしたら、↓こんな感じなんでしょうね。

 

国立国会図書館デジタルコレクション『素戔鳴尊』保積稲天[著]

 

 

ちなみに、高天原におけるアマテラスの役目には、機殿での奉職に並んでもうひとつ、水田の経営ということがあります。

けれど、水田ではアマテラスは奉職しないようで、記紀にもその記述がないようですから、まさに経営ということだけなんだろうと思います。

 

確かに、身に纏った神衣の尻を絡げて田植えするアマテラスの姿、想像できませんから(苦笑)

 

そして、この水田経営ということは天下において天皇へと引き継がれ、その班田収授により国の財政を構築して国家が運営されることになります。

 

つまり、祖神とされたアマテラスの担う聖職のうち、水田経営=国家統治天皇の役割として引き継がれ、他に本来なら司祭と機殿での奉職も引き継ぐべきところでしたが、それは内親王(天皇の娘)または女王(内親王以外の皇族女性)から卜占で選ばれた斎王へと分担された、ということになります。

 

それはやはり、アマテラスを女神としたことで、その役割で女性が適任とされる分野を天皇から分離させた、ということかと思われます。

 

ということは、天皇と斎王の二人一対でアマテラスの正統な後継者ということになるわけで、斎宮が都に次ぐほど大規模に組織された理由も、ここにあると思われます。

 

 

しかしながら実質的に、司祭は神宮の神官に牛耳られて斎王は添え物のようですし、斎宮も斎宮寮頭に専横されるままだったようですから、斎王はまさに人身御供で都から遠く島流しに遭ったという状況ではなかったかと思えます。

 

ですからそのような中、嫥子女王が起こした斎王託宣事件などもありながら、歴代ほとんどの斎王は、忸怩たる思いを抱きながら日々を過ごしていたのではないかと想像してしまいます。

本来、彼女たちは超高位のお姫様として、都で華々しく宮廷生活を楽しめる筈だったのですから。

 

しかしそこで、彼女たちの思いを晴らせる唯一の自己表現があったとすれば、それは女性としていつの時代にもなくてはならない永遠のステータス、服飾=ファッション、であったかもと考えが至りました。

 

 

 

 

そうして、ようやく参拝。

サチエはお気に入りの白石ひとつをコッソリと神前の正中に置き直し、私に何を言われるか、様子を伺っています(苦笑)

 

ともあれ良い子の皆さま、御敷地の白石を勝手に触ったり持ったりしないよう気をつけましょうね。orz

 

 

 

 

本殿へのお参りが終わって、後ろの方を振り返りました。

ずっ〜と、他に誰もおられないままでした。

 

ここで写真を撮り忘れましたが、本殿前この右横にある末社二社にもお参りしました。

 

 

 

 

御敷地の巨木。

ここに立つ意味が、何かあるんでしょうね。

 

 

 

 

境内奥の末社四社へ向かう途中、八尋殿を振り返ります。

巨木のお陰で、先の神服織機殿神社とは大きく違った印象になっています。

 

 

このような八尋殿がもし高天原にも本当にあったとしたら、その現実的な機殿内の様子は、多分↓このようなことだろうかと思われます。

 

国立国会図書館デジタルコレクション『神代の物語』佐野保太郎・他[著]

 

 

さて、斎宮における服飾=ファッションという件についてですが、伊勢の外れで籠の鳥となっていた斎王にとって、身の回りの高級な調度品や装飾品も重要なアイテムであったと思いますけれど、それらのほとんどは遠く産地より取り寄せるしかない筈の物で、細かな自分の好みを注文に入れられるわけではなかったと思われます。

 

しかし、糸や布による服飾品であれば、何より機殿が近くにあって、斎王は建前上かも知れませんけれど、ともあれアマテラス譲りの機織り専門家であったわけですし、そもそも近隣には和妙・荒妙を奉職する技術を持った人々が多く在住しているわけですから、自分の好みを事細かに伝えてオリジナルの逸品を作らせることは可能だったのではないでしょうか。

 

何より、それぐらいの自由しか斎王にはなかったでしょうし、それこそが女性にとって時代を超えた必須の自己表現であることを思えば、機殿と斎王を強く結びつけていたであろう関係性について、ことさら思いを馳せずにはおられません。

 

また、斎宮寮には500人を超える官人がいたということですから、もしそれらの装束が必要に応じ近隣へと発注されていたとしたら、斎宮周辺は常々機織り作業で賑わっていたかと思われます。

 

少なくとも、かつて上代の神御衣祭では、膨大な量の和妙衣・荒妙衣を奉職しなければならなかったそうですから、この地で紡績・織物業が盛んとなって今に至ったのも、斎宮の存在が大きかったのではないかと思われます。

 

服部と麻続部

(前略)

近代でこそここでは各一匹を奉織するだけで、そのほかは愛知県の木曽川町(和妙)と奈良県の月が瀬(荒妙)の専門の機業家に委託することになったが、上代においてはすべてをこの鎮守の社の加護のもとで織り立てたことはいうまでもなかろう。その数は『延喜式』によると次のとおりである。

 

    皇大神宮 荒祭宮 計

和妙衣 二四匹  一二匹 三六匹

荒妙衣 八〇匹  四〇匹 ―二〇匹

 

 和妙(にぎたえ)の糸は三河から送られたとしても、荒妙(あらたえ)の方は麻を栽培することから始めなくてはならない。このぽう大な量を、それも大御神の御料としてしかも短時日の間に奉織するとなれば、その奉仕の労は想像を絶するものがあったに相違ない。この時期がくるたびにおそらくは村中がことごとく忌機殿(いみはたどの)と化したことであろう。そうしてみると、今日のあの鬱蒼と茂った杜のなかの唯一棟の御機殿と唯一台の御高機というものは、貴重な象徴的存在ともいわなければなるまい。

(後略)

『伊勢神宮』櫻井勝之進(学生社/2013年)

 

 

ただ、もちろんながら、斎王や女官をはじめ斎宮寮の官人たちが、実際どのように装束を調達していたのか、私には分かりません。

 

もしかして、都から嫁入り道具のようにして持って来たものを何年にもわたり修繕しながら延々と着続けていたかも知れませんし、あるいは都へ発注すれば意外に易々と新しいものを届けて貰えたのかも知れず、もしくは私の想像したように斎宮の近隣で自ら調製していたものなのか、どうなのか…

 

何しろ、斎宮歴史博物館ホームページで色々と検索してみても、今のところ斎宮の装束に関する情報がほとんどヒットしません。

それでも、博物館には様々な装束の模造品が展示されていますので、それらの拠って立つ資料や根拠はあると思うのですが、未だそのような情報について掲載されていないようです。

 

 

ということで、アマテラスと機殿と斎王の関係につきましては、引き続き探求してみたいテーマとなりました(苦笑)

 

 

 

 

末社四社。

 

向かって左が境内の奥ですから上座となり、そこの一社だけ少し大きくなっています。

神服織機殿神社では上座から三社が並び、右端に少し小さな一社が上座の方を向いていました。

 

これらの配置や大きさにも、もちろん何か意味があるんでしょうけれど、まったく手掛かりがありません。

それと、先の二社と合わせやはり六社ですから、末社八所には二社足りません。

 

ということは、末社八所の「所」とは、「社」と何か意味が違うんでしょうかね?

 

 

 

 

参拝をすべて終え、境内を見渡します。

 

 

 

 

鳥居を出て、こちらへも再訪を期して一揖。

 

 

 

 

これにて伊勢市内での参拝は完了です、、、

 

とこの時は思っていましたけれど、これら機殿神社二社は松阪市、先の斎宮歴史博物館は明和町ですから、へんばや商店本店の後、すでに伊勢市を出ていたことへ後で気付きました(苦笑)

 

 

 

 

参道を戻ります。

 

写真は明度をかなり上げていますので、それなりに木漏れ日で明るく見えますけれど、実際はこれよりかなり薄暗い状況。

 

 

 

 

逆光のシルエットで迫力ある巨木。

真っ直ぐに伸びる杉の木より、このグネっとした曲がり具合が、伊勢志摩の気候らしく思います。

 

 

 

 

ふり返って左奥に社務所。

さらにその奥は、おそらくですが斎館かと思われます。

 

 

 

 

神服織機殿神社では木々が完全に参道を覆っていましたが、こちらは参道の上で木々の茂みが亀裂のように割れていました。

 

 

 

 

鳥居を出る前に、今一度ふり返ります。

 

 

 

 

杜を出ると、やはり陽光が眩しいくらいでした。

 

 

 

 

こちらの境内周辺には、車が通れるような畦道はありません。

 

 

 

 

時刻は、13:00ごろ。

 

いつもの冬至なら、すでに瀧原宮の参拝を終え、道の駅奥伊勢おおだいにて昼食を済まし三輪へ向け出発しようかという頃合いですから、かなり進行が押しています。

    

どうなることか、焦りながらも開き直った気持になって、次の瀧原を目指しました。

 

 

 

(つづく)→ 機殿神社追記、そして瀧原から三輪へ〜2016冬至伊勢行(17・最終回)




 

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幻の宮への扉をひらく斎宮歴史博物館4〜2016冬至伊勢行(14)←(承前)

 

 

 

 

斎宮跡から北へ4kmほどの田園地帯に鎮座する神服織機殿(かんはとりはたどの)神社。

広大な田畑の海にぽっかりと浮かぶ小島のようです。

 

斎宮歴史博物館から近くのため油断してカーナビ任せに道を行くと、入口が分からないまま大きな杜を巡る畦道を半周以上してしまいました(泣)

 

 

 

 

このような轍(わだち)のある畦道が、境内の周囲をぐるり取り囲んでいます。

 

 

 

 

こちらは反対方面。

境内へ参入する前に、サチエはスマホで諸連絡の確認中。

 

この畦道、対向車があったらアウトでした…

 

 

 

 

そして、真っ直ぐに伸びた参道へ参入します。

 

 

 

 

参道の突き当たりに社務所があり、その右手に玉砂利を敷き詰めた広い御敷地が開けます。

 

 

 

 

聳える巨木。

クスノキ、でしょうか。

 

 

 

 

来た方を振り返ります。

 

このように、鳥居の向こうへ延びている参道も舗装されているとはいえ狭い道です。

そこに軽ワゴンが駐車していましたから、私たちの車をどうしようか悩んだのですけれど、縦列にする余地もなかったため、取りあえず間をあけ並ばせて頂きました。

 

 

 

 

参道を覆う杜のトンネルを抜けると、右手にポッカリと広い空間が開けます。

 

ここまで歩いて来る間、掃除用のブロアー音が次第に大きくなりながら聞こえていましたが、まさにお掃除の真っ最中でした。

 

けれど集められた落葉を見ると、もうかなり集まっているようでしたので、そろそろ終わる頃かと思えましたから、先にノンビリ境内探索させて頂くことにしました。

 

左に大きく見えているのは八尋殿(やひろでん)と呼ばれる御機殿で、ここで和妙(にぎたえ・絹布)が奉職されますが、神さまを祀った社殿ではありません。

 

右の向こうに並んでいる小さな社殿は、神服織機殿神社末社八所のうちの四社です。

肝心な神服織機殿神社の本殿は、この写真の左外で柵だけが見えています。orz

 

神衣を奉る

 各地の神社でも年一度の大祭にあたって、あらかじめ御座替えといって新しい神座を奉ったり、またお衣更えとか御衣(おんぞ)祭と称して神衣を奉る行事が行われるところはけっして珍しくない。少くとも年一度は神座あるいは神衣を新たにして神威の格別なご発動を仰ぐというのがその由来であると解釈されている。

 伊勢の場合は『神祇令』の規定に、四月と九月の両度の神衣祭があげられているから、おそくとも奈良朝初期以来恒例の国事として年二回も神衣が奉られてきたのである。

(中略)

 それではこの重大な神衣とは、どういう品々であったろうか。

『伊勢神宮』櫻井勝之進(学生社/2013年)

 

 

 

 

ともあれ、鳥居から参入します。

それでも本殿が写真に入らないほど、とにかく広々とした境内です。


 

 

 

先ずは八尋殿の間近まで進みました。

ようやくその向こうには、本殿も見えています。

 

神服織機殿神社(かんはとりはたどのじんじゃ) 皇大神宮所管社 

祭神:神服織機殿鎮守神(かんはとりはたどののまもりのかみ)

祭神は神御衣祭(5月と10月の14日)に供進される和妙(にぎたえ・絹布)を奉職する御機殿(八尋殿)の鎮守の神、神服織機殿鎮守神。社地には小社殿ながら、所管社の神服織機殿神社末社八所、祭神は神服織機殿鎮守御前神(かんはとりはたどののまもりのみまえのかみ)がご鎮座されている。

神宮神職が参向(14日間)し、地元の者が古い伝統のままに奉職を奉仕している。下機殿(しもはたどの)とも呼ばれている。

お伊勢さん125社まいり/斎宮めぐり/神服織機殿神社

 

 

この八尋殿は、神御衣祭(かんみそさい)で皇大神宮と荒祭宮のアマテラスへ供進される和妙を奉職する際、このように正面の扉が開かれるようです。

神宮/祭典と催し/恒例祭典/神御衣祭(かんみそさい)

 

 

そして、織子(おりこ)と呼ばれるその和妙を織る奉職工の方の様子はこんな感じです。

八尋殿で織られる和妙

神宮/神宮について/神宮の御料と御料地/神様の衣「神御衣」

 

やはり織子さんは、女性なんですね〜。

それも、右下で補助的な役割の方もおられるようですから、複数のようですが…

 

神御衣奉織始祭

神宮/神宮について/神宮の御料と御料地/神様の衣「神御衣」

 

向かって左側に並んでおられるのが織子さん方だとしたら、計4名の女性が奉職されるようです。

 

 

服部と麻続部

 大御神と荒祭宮に奉る神衣は、和妙(にぎたえ)と荒妙(あらたえ)の二種類である。それにモトユイの糸、頸玉•手玉・足玉の緒、ふくろ襪(しとうず)の緒などの紐類•長刀子(がたな)・短刀子・錐•針・鉾鋒(ほこのさき)・縫糸などの御裁縫具までもとり揃えてお供えされた。今日も和妙(絹)荒妙(麻)に糸や組紐、針の類がだいたい古来そのままに調進される。

 この和妙の衣(みそ)というのは、三河国からたてまつる赤引(あかひき)の糸で織った純白の絹で、これを調進するのは服部(はとりべ)一族の任務であった。また、荒妙の敷和(うずはた)の衣(みそ)といわれた麻布の方は麻続部(おみべ)の調進するところであった。これらの氏族は、察するところ、櫛田川から多気川にわたる平野部にその生活圏を持っていたようである(もっとも、麻続部一族の中には、土師器の技術をもって奉仕する一団もあり、これは多気郡の有尓郷に居住したことは前にものべた)。

 かれらは大神宮のご用を勤める上から、神服部(かんはとり)、神麻続部(かんおみ)といい、それぞれ封戸ニニ烟を宛てられていた。その機殿の所在地は近世のいわゆる御糸(みいと)六六郷の地域で、今は松阪市に属している。

(後略)

『伊勢神宮』櫻井勝之進(学生社/2013年)

 

 


 

ブロアーでのお掃除は続いていましたから、私たちに気遣って頂いては申し訳ありませんので、今はまだ本殿へは近づかず、末社の方へ進んでみます。

 

 

 

 

こちらは多分、式年遷宮を機に社殿が新しくなっていると思います。

 

ご祭神は末社八所まとめて神服織機殿鎮守御前神(かんはとりはたどののまもりのみまえのかみ)ということで、社殿それぞれの詳細は不明なんでしょうけれど、大きさや配置にも何か意味があるんでしょうね。

 

 

 

 

こちらは境内で向かい側にある神服織機殿神社末社八所のうちの二社。

 

けれども、これだと先ほどの四社と合わせ六社しかありません。

他に見当たりませんでしたので二社足りないのですが、もしかしたらその二社はどこかで相殿になっているのかも知れません。

 

しかし、ご祭神の詳細が分からず相殿っていうのもチョット無理があるように思えますから、正確には公表しないだけなのか、あるいは単に私たちが二社を見落としていたのか、分かりませんけれど…

 

 

 

 

境内の鳥居を振り返ると、ほぼ正午の太陽が輝いていました。

それにしても、杜にかかったその位置は低く、冬至の日の短さを思い知ります。

 

この時、ブロアーの音が止まりました。

奉仕されていたのは近在のご夫婦のようで、お昼休みにされるようです。

 

そこで、鳥居前に駐めている車の件をお伝えすると、気さくに「あ〜、構わんよ、よ〜お参り〜」とお応え頂けましたのでひと安心でした。

 

 

 

ということで、参拝させて頂きます、

 

ちなみに、この神服織機殿神社と次の神麻続機殿神社は、ほぼ全く同じ規模と造りなのですが、そのどちらにもある八尋殿こそが明治になるまでは主役で、あくまでも神社はその鎮守ということだったそうです。

 

もとはどちらも御機殿の鎮守の神社と申しあげていたが、明治以降はこのように神社を主とし、その域内にそれぞれ八尋殿がある、というように表現の変化をみた(二見町にある御塩殿と御塩殿神社もこれとまったく同じ関係にあり、同じような変更があった。明治の神道行政の一端がうかがわれる現象である)。

『伊勢神宮』櫻井勝之進(学生社/2013年)

 

 

 

 

こちらも新しい社殿になっています。

向こうの八尋殿がまだ古いままなのは、やはり神さまのお社が優先、ということでしょうか。

 

ともあれ、織り上げられた和妙は、このような体裁で供進されるようです。

 

神様の衣「神御衣」

神様の衣を「神御衣(かんみそ)」といいます。神宮では毎年春と秋、天照大御神に和妙(にぎたえ)と呼ばれる絹と荒妙(あらたえ)と呼ばれる麻の反物(たんもの)に、御糸、御針などの御料を添えてお供えする神御衣祭が行われています。そしてお祭りに先立ち、和妙は神服織機殿(かんはとりはたどの)神社、荒妙は神麻続機殿(かんおみはたどの)神社のそれぞれの八尋殿(やひろでん)で奉織(ほうしょく)されます。

 

機殿(はたどの)について

神服織機殿神社と神麻続機殿神社が鎮座する辺りは、古くから紡績業と関係が深く、神様に奉る絹や麻を奉織する服部神部(はとりかんべ)と呼ばれる人々が住んでいたと伝えられます。

周辺の下御糸(しもみいと)・上御糸(かみみいと)・中麻績(なかおみ)・機殿・服部などの地名からも、その関係の深さを窺うことができます。

機殿の由緒は古く、皇大神宮御鎮座当時に、五十鈴川のほとりに宇治の機殿を建て、天上の儀式にならって大御神の和妙を織ったことが伝えられ、その後天武天皇の御代に紡績業の盛んな現在の地に移されたようです。

現在では神御衣祭を控えた5月と10月に神宮から神職が参向し、それぞれの八尋殿で奉織が行われます。奉織の前後には神御衣奉織始祭(かんみそほうしょくはじめさい)、神御衣奉織鎮謝祭(かんみそほうしょくちんしゃさい)が行われます。

神宮/神宮について/神宮の御料と御料地/神様の衣「神御衣」

 

 

 

 

こちらの末社へもお参りさせて頂きます。

それぞれのお名前や事績がまったく分かりませんので、かなり微妙な気分ですけれど。

 

 

 

 

正午を少し過ぎただけなのですが、太陽が早くも傾いてきたように思えます。

 

 

 

 

あらためて、神服織機殿神社。

そもそもが御機殿の鎮守さまとはいえ、立派です。

 

 

 

 

境内が広いため、空も大きく見渡せて、杜も豊かな気持ちの良い空間。

 

 

 

 

参拝も半ばながら、ボンヤリと遠い視線で佇むサチエ。

その側に、集められた落葉が小さく積み上がっています。

 

 

 

 

そうして向こう側の四社にも参拝。

個別のご祭神が分からないため、四社まとめてお参りさせて頂きました。

 

 

 

 

鳥居の方へと戻りながら、大きな木と末社二社を望みます。

 

 

 

 

再訪を期し、記念撮影。

妙にかしこまったサチエです。

 

 

 

 

ようやく全社の写った全体写真。 

左下には、お掃除に使われていたブロアーなどが置かれています。

 

 

 

 

薄暗く高い杜に覆われた参道を戻ります。

 

 

 

 

まさに洞窟のような参道。

 

 

 

 

境内を出ると、いきなり陽光に照らされて、眩しさに目を細めてしまいました。

次は、ここから2kmほど離れた神麻続機殿神社へと向かいます。

 

 

 

(つづく)→ 神御衣祭の荒妙を奉職する神麻続機殿神社〜2016冬至伊勢行(16)




 

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