宇波西神社/若狭三方縄文博物館〜海の日若狭行(9・最終回) | 日々のさまよい

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梅丈岳(レインボーライン)~海の日若狭行(8)←(承前)



レインボーラインの東、日向料金所を出たらすぐに右折して宇波西神社へ向かいます…の筈が、何故かサチエの名ナビ?で直進したまま日向湖の北東、レインボーラインの突き当たりまで行ってしまいました。

しかしそのお陰で、日向湖畔の漁港内を引き返すハメになりましたが、ありがたく予定にない日向浦見学ができました(泣笑)




日向湖畔へ寄り道した後、ようやく宇波西(うわせ)神社に到着しました。
時刻は15:00を過ぎています。

向かって左奥にある駐車場へ車を停め、正面にまわってお参りをさせて頂きます。




一つ目の鳥居をくぐると、神さま専用と思われる石橋があります。

宇波西神社については、Wikipedia/宇波西神社にて伝承も含め簡潔明瞭に紹介されていますので、そこからほぼ丸々で引用させて頂きます。


宇波西神社

宇波西神社は、福井県三方上中郡若狭町にある式内社(名神大)である。
彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)を祀る。
近くの若狭彦神社には、親神である彦火火出見尊・豊玉姫命が祀られている。

歴史

伝承によれば大宝元年(701年)3月8日、現在の美浜町日向で創建され、上野谷の金向山の麓に遷座した後、大同元年(806年)3月8日に現在地に遷座した。

日向地区の伝承では、この村に住む漁師の六郎右衛門が湖で漁をしていると一匹の鵜が現れ、「湖の底に高貴な方がおられ、救いを求めている」と言った。
鵜につれられて湖に入ってゆくと湖底に宝刀があったので、自宅に持ち帰り神棚に祀った。
すると六郎右衛門の夢の中に鸕鶿草葺不合尊が表れ、自分を上瀬の畔に祀るように告げ、自分の国の名である「日向」をこの村の名にするように言ったという。
宇波西神社の社名は「上瀬」によるものである。

また、他の伝承では大宝年間に鸕鶿草葺不合尊が日向から出雲を通り、日本海を渡って当地に現れたとしている。
日向地区は、古代に九州の日向国からの移住があったものと考えられており、方言や字名に日向国と共通するものが多い。

延喜式神名帳では名神大社に列し、北陸道の352座
神社の中で唯一、月次・新嘗の幣帛に預る神社となっている。

祭事

4月8日(旧暦3月8日に対する月遅れ)の例祭で奉納される「田楽」「王の舞」「獅子舞」「浦安の舞」は、「宇波西神社祭礼」として福井県の無形民俗文化財、国の選択無形民俗文化財に選択されている。


鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)とは、このような神さまです。
記・紀にみえる神。彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)・豊玉姫の子。
母の妹玉依(たまより)姫を妻とし、神武天皇が生まれたという。
名前は母が海辺に産屋(うぶや)をつくり、鵜(う)の羽で屋根をふこうとしたところ、ふきおわらないうちに生まれたことによる。
宮崎県鵜戸(うど)神宮の祭神。「古事記」では鵜草葺不合命。
デジタル版 日本人名大辞典+Plus

なお、鸕鷀草葺不合尊の鸕鷀は、本来「ろじ」と読み、中国語ではこの二文字で日本での鵜のことを意味するそうです。
ただし中国語で鵜は、ペリカンのことだそうですから、ややこしいですね。
コトバンク/鸕鷀

あと、ウガヤフキアエズ王朝というものがあった、という説もあるそうです。
けれど、根拠とされる文書は全て偽書とされているそうですから、どうなんでしょう。


北陸道の352座」は、↓こちらで確認できます。
國學院大學/神道・神社史料集成/北陸道

ちなみに、この↑データベースで日向国神社一覧を見てみると、鵜戸神宮に該当する神社がなく、近隣国にもウガヤフキアエズを祀る神社がありません。

そこで、鵜戸神宮ホームページご由緒の沿革を見てみると、
当神宮のご創建は、第十代崇神天皇の御代と伝えられ、その後第五十代桓武天皇の延暦元年には、天台宗の僧と伝える光喜坊快久が、勅命によって当山初代別当となり、神殿を再興し、同時に寺院を建立して、勅号を「鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺」と賜った。
とあります。
また、Wikipedia/鵜戸神宮でも同様の説明があり、鵜戸神宮は創建から明治の神仏分離に至るまで、一貫して
寺院だったようです。

そのため記紀編纂の時代より、ウガヤフキアエズ=神武の父を祀る“神社
が、本拠の日向国にもなかったことから、この若狭国で創祀されていた宇波西神社は、朝廷にとっても特別に貴重な存在だったのでしょうか。
北陸道の352座神社の中で唯一、月次・新嘗の幣帛に預る神社」というのは、格段に高い扱いだと思いますので。




強い陽射しから逃れるため幟のポールを支える石柱の影に入って、写真を撮っている私を待ちながら大あくびのサチエ。

石段の上に見えるのは拝殿で、壁面が透明な建材で中が見える立派な覆い屋で囲われていますが、屋根は拝殿そのもののようです。
最初はこれが本殿かと思い、正面の扉を開けようとしたら鍵が掛かっていたため、お参りを諦めかけました。

けれどふと左横を見ると、境内に赤字で[順路→]と示された看板を見つけましたので、拝殿の横から奥へ行ってみると、裏側にこれまた立派な本殿があったのでひと安心しました。




こちらも拝殿と同様の覆い屋に囲わていますが、前面が開放されてお参りしやすくなっています。

本殿内は丁寧にお掃除をされている様子で、賽銭箱まわりも案内や資料、おみくじなどが分かりやすくキレイに整えられ、とても気持ちの良い状態でした。


ここで頂きました「参拝のしおり」から、少しご紹介いたします。

宇波西さんのあらまし

国定公園若狭湾の勝景は世に定評があるが
   若狭なるみかたの海の浜清みいゆきかへらひ見れど飽かぬかも
と万葉の歌びとがうたいのこしてくれた三方五湖と日本海の眺めは自然美の尤もなるものであろう。宇波西さんはこうした湖畔に散在する十余の里々を氏子区域に、ふるさとの鎮めとして千三百余年にわたって人々の崇敬をうけられている大社である。
 延喜式(約千年前の書)の神名帳には
    宇波西神社(名神大・月次・新嘗)
と記され、北陸道唯一の大社でもあった。
   (中略)
社家に伝える記録によると、日向浦に奉斎したのは大宝元年に当地の湖辺に奇瑞のことがあり、時の国造がその由を朝廷に申し、日向の国鵜戸山から神霊をお船にうつし奉り出神某なるもの御太刀を携えて従い湖辺に御着船、初めて仮に奉斎したとのことであり、又神託あって「この地日向国坂山の景色に似たり。因ってここを日向浦と名づく云々」とも書かれている。
 九州鵜戸神宮の御祭神はうがやふきあえずのみことであり、当地日向浦の言葉は当地方特有の訛りで今なお語られ、それが日向国の漁村の言葉そのままとも云われている。
 又遷座祭のある場合、今も神霊をお船に遷して遷行される慣例であり、四月八日の例祭には出神家の当主が太刀を奉じて先頭に立ち、区民と共に参拝の重儀が行われる。彼此考え合わせると御鎮座の様子がほぼ伺える様である。
   (後略)


このようなことで、先のWikipedia記事や鵜戸神宮ご由緒と併せますと、今の鵜戸神宮祭神でかつて鵜戸山大権現であったウガヤフキアエズを奉斎する一族が、九州の日向国からここ若狭の日向浦に移住して村を成した、ということのようです。

そしてやはり気になるのが、ウガヤフキアエズの名前にも入っておりそのお使いとなった鵜と、お水送りで東大寺に飛び出す白黒二羽の鵜、これらが“鵜つながりであることです。

なお、日向国や日向湖では海水なので海鵜、東大寺や根来では淡水ですから川鵜だったでしょうけれど、海鵜と川鵜に違いはほとんどないようですから、鵜は鵜ということで同じと考えればよいようです。


そこで、若狭彦神社は彦火火出見尊、若狭姫神社は豊玉姫命が祭神とされており、宇波西神社のウガヤフキアエズはその御子神ですから、この三社は家族という構成になります。

となると、ウガヤフキアエズのお使いが鵜であるなら、その親神のお使いも鵜であって然るべきかと思います。
まして往事、宇波西神社が北陸道で最高の格式を誇ったということですから、そのお使いである鵜にあやかることは、神宮寺や若狭彦神社にとっても重要だったのではないでしょうか。

なので東大寺で飛び出した白黒二羽の鵜とは、ウガヤフキアエズの両親とされた若狭彦神社と若狭姫神社という陰陽二社一対、それぞれのお使いで白黒二羽だと考えれば自然かと思いました。

二鵜=丹生という説もありましたけれど、それはちょっと穿ち過ぎな気もします。
何より、丹生と名の付く地は奈良やその近辺にも多くあるわけですから、わざわざ遠敷(小丹生)から丹砂を運ばせるのが効率よいかどうか疑問です。
それに小丹生という名も、あえて丹生に小を付けており、それほど丹砂が多く採れたとも思えません。


ということで、“鵜つながり三社の歴史を見てみました。

紀元1世紀頃:遠敷明神が唐服を着て白馬に乗り根来白石の里に影向(社伝・神宮寺由来)
紀元3~4世紀頃:鵜戸神宮が六所権現と称して創祀(社伝)
紀元4世紀後半:若狭が大和王権の支配下に入る
紀元6~7世紀頃:鵜戸神宮が鵜戸神社と称して岩窟内に社殿を創建(社伝)
紀元7世紀:遠敷郡と三方郡から成る若狭国が設置される
681年頃:古事記・日本書紀の編纂開始
694年:藤原京へ遷都
701年3月8日:宇波西神社が現在の美浜町日向から金向山の麓上野谷に遷座(社伝)
710年:平城京へ遷都
712年:古事記の成立
714年9月10日:若狭彦神社が白石の里に創建(社伝)・神宮寺が神願寺として創建(神宮寺由来)
715年9月10日:若狭彦神社が現在地に遷座(社伝)・神宮寺が若狭彦姫神を勧請(神宮寺由来)
720年:日本書紀の成立
721年2月10日:若狭姫神社が下社として上社より分祀し現在地に創建(社伝)
752年:東大寺大仏開眼供養会・実忠が二月堂を創建し初の十一面悔過(東大寺要録)
784年:長岡京へ遷都
794年:平安京へ遷都
806年3月8日:宇波西神社が現在地に遷座(社伝)

このように、若狭国では先ず、遠敷郡の山間に遠敷明神の夫婦二神が始祖として祀られており、次に三方郡の海辺へ、九州の日向国からウガヤフキアエズを奉斎する一族が移住して来たと考えられます。

それから大和での中央集権が進み、律令制が確立して神話も記紀で整えられて行くと、若狭国ではそのような時勢に対応するため、元より夫婦神であった(もしくは若狭彦神社創建に際し夫婦神として分離した)遠敷明神の彦・姫二神をウガヤフキアエズの両親として記紀神話に習合させた、ということかも知れません。

また、そうすることで、山と海、物流と物産、遠敷と三方という連携も深められ、海産物を朝廷に多く献上した御食国 (みけつくに)として、国力向上が図られたのではないでしょうか
何より一地方の始祖神が皇祖神として朝廷から認められ昇格した訳ですから、若狭国の政治的な安定もこれでバッチリとなった筈です。

特に8世紀には若狭国で製塩が非常に盛んとなり、京に運ばれた塩の量で全国1位の38%を占めたそうです。
また「奈良の東大寺で実施されるお水取りは、東大寺が小浜に持っていた荘園に由来する祭である」とのことです。
Wikipedia/若狭国

そのためウガヤフキアエズ=神武の父に由来し、海にも山にも馴染み深くそれら水辺に舞い集う鵜が、水の国若狭の象徴=遠敷名神=神武の祖父母として東大寺に飛び出たのだと思われます。
また鵜の瀬という名称も、このお水送り伝説によって名付けられたということです。





重厚な唐破風。
彫刻も精巧で見応えがあります。

社殿はほぼ真東に向いていますから、午後の陽光は本殿の後ろから射して来ます。




境内社、八幡神社。
大山咋命、大將軍大神、大杉大神、八衢彦命、八衢姫命、船戸神、菅原道眞、神功皇后が合祀されているそうです。

しかし、「スズメバチの巣あり 危険ですから 近寄らないで下さい」との貼り紙が…
お言葉通り、近寄れませんでした(泣)





境内社、小美多麻神社。
護國の英靈を祀られているそうです。





本殿の覆い屋。
拝殿と同様に、屋根はそのまま活かして、回りを囲う造りのようです。





本殿から見た拝殿の裏手。
覆い屋の中がよく見えませんけれど、なんか凄く立派な造りの拝殿のようです。

お祭りの際には、さぞや賑わうことと思われます。




拝殿の正面、本殿で頂戴した「参拝のしおり」を手に、サチエの記念撮影。





王の舞堂。

王の舞の舞の舞人の支度だけは、部外者の立ち入れない「王の舞堂」で、ひと知れず行なわれます。

とのこと。詳
しくは↓こちらをどうぞ。
ゲジデジ通信/若狭 宇波西まつり その1「王の舞」
ゲジデジ通信/若狭 宇波西まつり その2「獅子舞・田楽」

先にご紹介した「参拝のしおり」にある「
遷座祭のある場合、今も神霊をお船に遷して遷行される慣例であり、四月八日の例祭には出神家の当主が太刀を奉じて先頭に立ち、区民と共に参拝の重儀が行われる。彼此考え合わせると御鎮座の様子がほぼ伺える様」を、私もいつか拝見してみたいものだと思います。




駐車所から望む社殿と社叢。
正面から見ると落ち着いた様子の杜でしたが、このアングルだと結構な迫力があります。


この時点で、今後の進行を検討しました。
時刻は15:30になろうとしています。

予定では、次に三方石観世音に寄ってから若狭三方縄文博物館、帰り途上で湖西の白鬚神社となっていました。
けれど、博物館の閉館が17:00のため16:00には博物館へ入りたかったので、
今回は無理せず、三方石観世音を割愛し諦めることとしました。




そうして、若狭三方縄文博物館に到着です。
この芝生のこんもりとした丘の中に博物館があります。

初めての訪問でしたから、駐車場側からだと入り口がどかこ分かりませんでしたけれど、左の階段が入り口への近道だと手書き看板にありましたので、助かりました。

けれど残念ながら、館内は撮影禁止だったので、外観以外に何も写真がありません。
ということで、↓ホームページをどうぞ。
若狭三方縄文博物館


とは言っても、このホームページは写真も小さく点数が少なすぎます。
ものすごくショボい印象しかありませんので、↓こちらの動画もどうぞ。
ふくい歴史百景/鳥浜貝塚





階段を昇って丘の中腹を玄関方面へ歩いています。
このアクセス方法は、もし雨など降ってたらイラッとさせられるかも、と思います(苦笑)





博物館の観覧を終えて、16:30頃、予定より30分ほど早いですが、帰路につくこととしました。
湖西の西近江路、国道161号線沿いにある白鬚神社へ寄ってから、明るい内に帰宅したいと思っていましたので。

白鬚神社ホームページ

これは博物館のエントランスを出たところで見た縄文ロマンパークです。
画面の左外側に梅丈岳があるのですが、何故か撮っていません(号泣)

こんな感じで見えていた筈なんです…orz






…ところが、立ち寄るつもりだった白鬚神社の前を素通りです(泣々)




この時、時刻はすでに19:20、博物館を出てから3時間近くも経っています。
予定では小1時間くらいで着く筈でしたが…

そこには、想像を絶するような渋滞がありました~。

この海の日、多くの学校が既に夏休みとなっている7月20日、それも3連休最終の祝日、そして台風一過で超絶好の晴天。
その上、他に迂回路のない国道161号線と並行する山間の国道367号線が土砂崩れで通行止め。

このような夕刻、若狭と湖西へ群れこぞった大量の人々が、たった1本の片道2車線しかない幹線道路へ、一斉になだれ込んだとしたら…

そんな事を何も考えないまま、どうにもノンキなものでした。




白鬚神社を通過してから5分としないうちに、日はとっぷりと暮れました。
黒くなった比良の山波には、ぽっこりと四日月が浮かびます。




最後に、記事として蛇足になってしまうかも知れませんけれど、避けて通れない若狭の抱える重大な問題について記しておきます。

それは皆さまご存知のように、若狭には原発銀座と呼ばれるほどに原子力発電所が建ち並んでいるということです。

しかし、それらは現在、東日本大震災による未曾有の被害と甚大なる犠牲によって与えられた貴い教訓により、かろうじて稼働が停止しているという状況です。

ところが、もしその1基でも再稼働となり、万一にも福島と同様のダメージを受けるようなことが起こりましたら、それはこの若狭をはじめ、関西一円の全滅ともなりかねない事態へと至ります。


展覧会「京都市長選挙」開催概要 | 【Social kitchen】Working Group 1「震災/原発」


願わくば、今ある貴い自然とそこで育まれる命を未来へ届けるために、若狭にお住まいの皆さま方を始め、不肖私も微力ながら、そして日本の人々全ての力を合わせまして原子力撤廃が実現できますよう祈っております。



(おわり)




~いつも応援ありがとうございます~