不安神経症からの解放(eyさんの場合)

このブログでの投稿です。

○
eyさんの投稿
2006/7/23(日) 午後 11:56  [ ey ]  

まるちゃんさん、はじめまして。 私は2年前から不安神経症でずっと苦しんできました。 
外出すると、緊張して気分が悪くなり、今まで当たり前だと思っていた事が
出来なくなり、どうしたら治るのかとずっと悩んでいました。 

また気分が悪くなったらどうしよう…と、頭で常に考えてしまうので、
その事を考えないようにしようしよう…と思っているのですが、
そう思うことで結果的に考えてしまっており、いっこうに治らない。   
 
常に自分はもう治るんだと信じて、出来るだけ外出することを
心がけようとしてはいるものの、実際は予期不安で頭の中は恐怖でいっぱいの日々です。
そして今日、このブログを発見しました。 いくつか記事を読ませて頂き、
とても感動しております。 私が求めていた物はこれだ!と。 

まるちゃんさんのこのブログに出会うことが出来たのも運命だと思っています!
今までの私は「治そう治そう」そのことばかり考えていました。   
 
これからは、不安くんや恐怖くんたちと仲良くしながら、 今の自分の全てを受け入れ、
あるがままに身を任せようと決心しました。 
実際うまく出来るかはわかりませんが、焦らずゆっくりとやって行こうと思います。
これからも読ませて頂きますので、どうぞよろしくお願い致します。
 長々と失礼しました。   
 

◎
私の返信

苦のままの、安心。

eyさんいらっしゃい。こちらのほうにトラックバックしておきます。

> まるちゃんさん、はじめまして。 私は2年前から不安神経症でずっと
苦しんできました。 外出すると、緊張して気分が悪くなり、
今まで当たり前だと思っていた事が出来なくなり、どうしたら治るのかと
ずっと悩んでいました。 
また気分が悪くなったらどうしよう…と、頭で常に考えてしまうので、 
その事を考えないようにしようしよう…と思っているのですが、 
そう思うことで結果的に考えてしまっており、いっこうに治らない。   

そうでしたか、心に生ずる不安感にフト驚いて、常に安定した状態に有りたいと、
完璧主義的な性格で過剰に心を制御しようと向かうと、それがとらわれとなり、
自然な、心の流れから外れて、かえって、不安が増幅され、予期恐怖となり、
ますます、悪循環で、不安が増大されて行くものです。

> 常に自分はもう治るんだと信じて、出来るだけ外出することを心がけようと
してはいるものの、実際は予期不安で頭の中は恐怖でいっぱいの日々です。

治そうとする、心のこうあらねばの、きめつけ、相対、対象がある為に、
常に其の比較に、心が構いっきりになり、常時、不安恐怖感から逃れられない
状態ですね。

> そして今日、このブログを発見しました。 いくつか記事を読ませて頂き、
とても感動しております。 私が求めていた物はこれだ!と。
 まるちゃんさんのこのブログに出会うことが出来たのも運命だと思っています!
 今までの私は「治そう治そう」そのことばかり考えていました。   

そうでしたか、何か感じられるものがあったなら、幸いです。
そこまで、治らないと苦労されて来られたから、そういった、
「治そう治そう」だけでは駄目だと言うことが理解されたんだと思います。

あるがままを、心の奥底から選択すると言う事は、どうしても、
自己の限界を知る、どんずまりの縁というものが必要でありますので。

そうでないと、あるがままと思っていても、心の奥底で、こうあらねばの心が
持ち上がって、あるがままにならない訳ですね。

 
>これからは、不安くんや恐怖くんたちと仲良くしながら、
 今の自分の全てを受け入れ、あるがままに身を任せようと決心しました。

幸いにして、心のどんずまりに遭遇し、”あるがままに身を任せようと
決心しました”が、心の奥底で決着されたなら、非常に素晴らしいことです。

そうですね、こうあらねばの心と戦わずにすむと、
かえって楽な、安心が芽生えて来る物です。

かといって、こうあらねばの心と戦わないと言う事は、
”不安くんや恐怖くんたちと仲良く”して行かなければなりません。

人間というものは、不安、恐怖を排除したいと願いながら生きて行くものですから、
これは、180度の転換、まったく逆の生き方になりますので、非常に理解されがたい、
ものになります。

あるがままや、他力と言うものは、易行道とされ、行もいらない楽なものとされますが、
実は、地獄さえも、取り込んで行こうと言う、一大決心が要るわけですね。

もっとも、地獄さえも、しかたない、どんずまりを自覚した自己だからこそ、
決心せざるを得ないわけですが。

地獄がくれば、地獄で行く。
苦が来れば苦で行く。

最早、選択の余地はない訳です。
信心銘 三祖鑑智禅師(?~606)
http://blogs.yahoo.co.jp/marucyan1/14896651.html
”至道無難、ただ揀択を嫌う、ただ憎愛なければ、洞然として明白なり。”ですね。

選択の余地もなく、揀択もない、その心の決着が、
”洞然として明白”な物を運んでくれる。
かえって、葛藤が無い分、楽な安心が、スーっとやって来るわけです。

無楽の楽。
無安心の安心

苦のままに行く、楽、安心を放下したゆえの、楽、安心ですね。


> 実際うまく出来るかはわかりませんが、焦らずゆっくりとやって行こうと思います。
 これからも読ませて頂きますので、どうぞよろしくお願い致します。
 長々と失礼しました。   

そうですね、これからも色々、スッタモンダがあると思います。
心の上下、波風、いくらでもやって来ます。
うまくいかない心も、やって来ます。

しかし、それらもあるがままの範囲であり、あるがままを外れることはありません。

心の上下、波風、うまくいかない心、スッタモンダ、それらを排除することなく、
全部、丸ごとの心で、やって行って下さい。


○
eyさんの投稿
2006/7/27(木) 午前 0:17  [ ey ]  

早速のお返事、本当にありがとうございます。 
「あるがまま」 うまくいかなくても苦しみがあっても、
それを全てひっくるめて今の自分。 

ここ2・3日、自分の中の執着がなくなり、楽になった気がします。 
あるがままに過ごして行きます。   


◎
私の投稿

>早速のお返事、本当にありがとうございます。 
「あるがまま」 うまくいかなくても苦しみがあっても、
それを全てひっくるめて今の自分。 ここ2・3日、自分の中の執着がなくなり、
楽になった気がします。 あるがままに過ごして行きます。   

eyさんいらっしゃい。そうですか、それで良いですね。
いたるところに落とし穴もありますので、注意しながらやって行って下さい。

いろいろ読まれてるので、要点は解っておられると思います。
楽になって、その楽を固定して守ろうと向かうと、元の木阿弥になります。

この調子だと、こうやれば良いのだと、勘所を押さえたつもりになると、
又、真っ逆さまに落ちていきます。何にもこうだと言う物がないのが本当です。

無功徳、不識と達磨さんが言ってますが、まさにそれですね。