これはぼっち時代に自分と向き合い

 

決めたことです(ΦωΦ)

 

当時私以外は全て敵でした

 

預けられるいる親戚の実子どもとその親も

 

相当の差別待遇を受けました

 

実子どもがゲーム三昧の時に私だけ家事の手伝いをさせられていた

 

自転車も私の実家から私用の自転車代金を受け取っておきながら

 

奴らは実子に新しい自転車を買い私には奴のお古を与えた(  ̄っ ̄)

 

これは実家へ帰ってから裏どりしたので確実です

 

そんな奴らの家で暮らしながら

 

実子どもの執拗な嫌がらせに対応しつつ

 

学校ではぼっち生活

 

ご飯もお腹いっぱい食べようモノなら執拗な嫌味攻撃に遭うから

 

お腹いっぱい食べた記憶がありません

 

そのせいか実家に帰るまでチビでした(;¬д¬)

 

今考えてみれば返ってそれが良かったと思えます

 

全てが敵なら迎え打つしかない訳で

 

これが優しい両親なら心配かけまいと一人で背負い込むことになり

 

優しい両親だからこそそれが負担になることもあります

 

その両親が良識を弁え最悪なのは性善説を信じていた場合は

 

みんなと仲良くしなければならないなんて思想を子供に植え付けようモノなら

 

仲良くできないのは自分に問題があると勘違いしてしまう可能性は高くなります

 

すると誰も責めてはダメだと考えたかも知れない

 

結局自分しか責める相手はいなくなる(=◇=;)

 

私は生まれてきてよかったのだろうか

 

生まれるべきではなかったのでは無いのか

 

親の期待通りみんなと仲良くすら出来ない自分に生きる値打ちはあるのか

 

私も親戚の奴らの口車に乗ればこのように自分を責めていたかも知れません

 

私はある意味恵まれていたようです

 

明らかに奴らは悪だと認識出来たから

 

そんな奴らの価値観に合わせる必要はないと子供心に考えました(。-ω-。)ノ ・゚゚・。ポイッ

 

理解者も認めてくれる人もいない

 

実の親からは捨てられているようなものだし

 

これではあまりにも私がかわいそうです(=`(∞)´=)

 

そこで、私だけは私の友達になってあげようと思いました

 

誰一人味方になってくれないなら

 

私だけは私の味方になってあげようと思いました

 

そして、私だけは決して私を裏切らないと子供心に強く決意したのを覚えています

 

全てが敵というのは良いように作用しました

 

私は悪くないと思えるからです

 

奴らこそ悪の権化だと思えるから

 

徹底的に戦えば良いわけです

 

自分を責める要素も余裕もありません¢( ・・)ノ゜ポイ

 

実際今考えても奴らは理不尽だと思います

 

また誰かを頼る心が育たない為

 

依頼心とか依存心とかも育たない(Φ▽Φ)♪

 

自分の道は自分で切り開くしか無いのです

 

こうして私は自力重視の考えに歩き出します

 

小学生低学年の私には他力の何たるかまで考える余裕はありませんでした

 

だから自分の人生は自分で勝ち取るしか無い

 

そう言う考えに走るのは自然なことだと思います

 

この当時は性悪性を信じていました

 

今は性善説も性悪説も信じていません(。-ω-。)ノ ・゚゚・。ポイッ

 

人間は善悪セットで存在している(ΦωΦ)

 

子供だった私は性悪説、悪こそ人間の本質だと思い込んでいました

 

その為生き抜いて行く為にはやられっぱなしではダメです

 

かと言って多勢に無勢不利であることには変わりない

 

そこで策略を巡らせました

 

ぼっち時代の話は過去に何度か記事にしましたから

 

詳細は省きます(。-ω-。)ノ ・゚゚・。ポイッ

 

そんな訳で私だけは私の友達でいてあげようとしています

 

このボッチ時代に唯一味方のように振る舞って来る子もいましたが

 

裏に回れば私の悪口を散々言っていたり

 

私を直接攻撃しない子でいつも中立的な立場に立っていた

 

目立たないでいつも人に着いて行きます的な大人しい子が

 

真っ黒い女子だと行き着くまでは相当大変でした

 

まさかこんな大人しい子がみんなを扇動して私を孤立させていたなんて驚きました

 

この真っ黒い女子を炙り出すには骨が折れましたが

 

多勢に無勢の状況を打開する道は括弧撃破しかないと気がついて

 

この時学んだ戦術は後々まで有効です(ΦωΦ)

 

この時は性悪説でなければ乗り切れなかったと思います

 

人間の本質は悪だと思い込んだから、どんな裏切りにあろうと

 

真っ黒い女子がこんな大人しい人の良さそうな子だと知っても

 

人間なんてこんなものだと思えたからそれほど精神的なダメージは受けませんでした

 

私が私の友達になろうという発想になったきっかけは

 

自然の多い場所を探してお古の自転車でうろつくようになってから

 

その場所だけは優しく私を迎え入れてくれたのです( ̄‥ ̄;)

 

自然はとても優しい空気だと気がつきましたΣ(¯∇¯;)!!

 

家でも学校でも話し相手がいなかったせいもありますが

 

木々に話しかけたりしてましたね(ー_ー)!!ヤバいか?

 

次第に木々の声のような空気感のイメージのようなものを感じるようになりました

 

( ̄▽ ̄;)ますますヤバいかも?

 

やがて、自然の背後に神様の存在を感じるようになりました( ̄‥ ̄;)

 

自然の声と神様の声の違いも感じられるようになりますΣ(¯∇¯;)!!

 

自然の声に関しては、社会人になって二年に及ぶ実験結果から確信しています

 

それを2回合計四年を掛けて実験していずれも結果が出ました(ΦωΦ)

 

しかし

 

神様と直接相対せる筈はない、別の霊だという方もいますが

 

私は聖書の中でヨハネの黙示録だったでしょうか

 

終末のその日には神様の霊を全ての人に降ろすと記されてありました

 

これからはその時代では無いかと見ています

 

そうなると全ての人が預言書のように神様と一問一答出来るようになれる

 

これはキリスト教の中でも意見が分かれる内容ですが

 

私は一人一人の心の中は神様と繋がっていて本来は一問一答出来る素質を持っている

 

と見ています

 

神様→天使や徳の高い善霊→先祖や守護霊→背後霊→私

 

と言うようなピラミット式の時代は既に終わっていると見ています

 

神様→私、全ての人がこの図式のようになる時代は到来している

 

この図式を頭ではなく感覚で感じていました

 

この感覚を感じてから自然と神様に話しかけるようになりました

 

もちろん宗教とは関係ありません(ノ´▽`)ノ ⌒(宗教)

 

私は宗教自体を否定はしていませんが

 

宗教が戦争を生み出す苗床になっている場合もあります

 

イデオロギーによる戦争は例え唯物論でも宗教性による戦争だと捉えています

 

人間の持つ宗教性は何かを絶対的に信じる性質を生み出している

 

正義心もその一つです

 

毎日私を攻撃しているクラスメートたちも

 

私が悪の権化だと信じ込んでいて正義の為に攻撃している訳です

 

クラスメートたちの正義のカタチと私の正義のカタチが違うだけなのに

 

奴らは自分たちの正義のカタチに執着して私に強要してきます

 

この何かを絶対的に信じる性質は人間の宗教性だと私は捉えました

 

つまりイデオロギーは例え神様の存在を否定する考え方であったとしても

 

その考え方を絶対的に信じるなら立派に宗教性だと思います

 

科学的性質はこれとは真逆です

 

何物も信じないで、ただ事実だけを見つめる

 

科学的思考は可能性を否定しないモノです

 

自分が立てた仮説が実証されたとしても

 

それとは違う可能性を決して否定しない¢( ・・)ノ゜ポイ

 

より有力な説として受け止めるだけです

 

イデオロギーによる戦争は宗教を否定するモノであっても宗教戦争と変わらない

 

私は後々戦争を無くすためにどうすれば良いのかという発想になります

 

その為には戦争のことを知る必要があります

 

ただ悲惨なもの、嫌悪すべき存在とだけ捉えるのではなく

 

何故戦争が起こるのかを客観的に調べて考察、分析、仮説をたて実験してみたりしないと

 

いつまで経っても無くならないと思います

 

戦争には利権が絡んでいることも見えて来ました

 

つまり戦争をすることで得をする奴らもいるわけです

 

土地の奪い合いなどは利権戦争といえます

 

覇権というよりその土地が恵まれていたり鉱山があったりと手に入れると

 

何かと利権が生まれるヨーロッパでは第二次対戦後も続いていて

 

それを回避するためにEUが生まれましたよね

 

これとはまるで違うタイプの戦争もあります

 

それがイデオロギーによる戦争ですΣ(・ω・ノ)ノ!

 

Σ( ̄ロ ̄lll)なんの話やあせる

 

神様や自然に話しかけるようになって行くうちに

 

大自然から見た人間とか神様から見た人間の世界とか感覚的に感じられるようになると

 

大自然から見た私という存在の捉え方をするようになりました

 

すると

 

私だけは私の友達になってあげようという発想が生まれました

 

私を裏切った子がいましたが

 

最初から味方ではなかったから裏切ったのとは違うかも知れません¢( ・・)ノ゜ポイ

 

当時はまぁ人間なんてそんなモノだと思い

 

それほどダメージは受けなかった¢( ・・)ノ゜ポイ

 

人間の本質はどうあれ

 

私だけは私を裏切らないと誓いました

 

改めて私の友達になると決めてから

 

どうすれば私の友達になれるのかを考えなければならなくなりました(=◇=;)

 

ぼっちに友達はいないわけです(>▽<。。)ノ))

 

笑いが込み上がって来ました

 

それなら私が友達に求める事をみんな私にしてあげようと考えた訳です

 

すると案外何もない(=◇=;)

 

基本人に何かを求めることはしない体質のようです¢( ・・)ノ゜ポイ

 

そこで私なりに試行錯誤を繰り返しながら考え抜いて気が付いたのは

 

まず私を理解してあげること、次に私を認めてあげる事、私を信じてあげること

 

そして私は決して私を見捨てないこと

 

など次々に見えて来ました

 

一つ一つメモしてノートに纏めました

 

私だけは私を大切にしてあげようと思いましたよ

 

ただ自分を大切にすると言うのは甘やかすことではありません¢( ・・)ノ゜ポイ

 

寧ろその逆で厳しくすることも自分を大切にすることだと考えました

 

こうして私が自分の理解者になる努力が

 

自分と向き合い自分のことを知る一つのきっかけになりました

 

私だけは私を好きになろうと思うようになりました

 

自分を好きになる為には好きになる要素を自分の中に探すより

 

好きになる生き方をする方が手っ取り早いと考えました

 

ところが当時性悪説を信じている私としては

 

人間を好きになる要素がありませんΣ( ̄ロ ̄lll)

 

当時毎日のように「人間なんて滅んでしまえ」と考えていました

 

しかし、自然や神様は私には優しい

 

後々神社へ足を運ぶようになります(,,꒪꒫꒪,,) 

 

神様や自然が大好きになりました:.゜ヽ(*´∀`)ノ゜:。+゜

 

私が最も苦しい時に味方でいてくれた私はこの恩は決して忘れない(ΦωΦ)

 

これが苦難の始まりなのですが(ー_ー)!!

 

神様と繋がっている私の心の声がまた理不尽な難問を私に突き付けて来るのです

 

散々っパラ私に嫌がらせした奴らの良いところを10個見つけてみようとか

 

ヾ(。`Д´。)ノむかっそんなことできるかっむかっ

 

その後も無理難題を強いられるようになりました(=◇=;)

 

それはさておき(。-ω-。)ノ ・゚゚・。ポイッ

 

私が私の友達になろうとして行くうちに

 

公園や自然の多い場所にいると、やたらと人から声をかけられるようになりました

 

そのうち自分から声をかけるようになり談笑するようになると

 

すっかり学校の事も家のことも忘れられる時間となりました

 

自然や神様、そして通りすがりの人々との関係が笑いに満ちでいると

 

毎日の攻撃に対する攻略も客観的に見えて来るようになり

 

計画を練って策略を巡らせ成功するようになります

 

あらゆる問題も心の傷も一瞬でも忘れられる時間を設ければ

 

案外乗り越えられる道を見つけ出せるようになることも学習しました( ̄‥ ̄;)

 

今振り返って考えてみれば

 

私が私の友達になろうとした時から

 

人生の好転が始まったような気がします(ΦωΦ)

 

さてそれから、人に絡まれやすい体質になり

 

実家に生還してから家族との関係性、絡まれ易くなり

 

好意的に接してくれる子も増えた為

 

人との付き合い方と向き合う必要が生まれました

 

そう言う時、私は私の友達になる自分との付き合い方が役に立ちました

 

それは自分との付き合い方です

 

これを基本として付き合い方の振り幅を広げることで対応しました

 

これは社会人になって初めて気がついたのですが

 

自分との付き合い方が良好なら人間関係も良好になりやすいΣ(¯∇¯;)!!

 

何故もっと早く気が付かなかったのだろう・・・(。_。;)゜:。アセ

 

そのことに気がついてから

 

更に自分と向き合い、自分との良好な関係を築くようになると

 

あれだけバトル全開の人生が穏やかになって来ました(=◇=;)

 

自分を大切にすることが基礎になり、自分が好きな相手に対しても

 

自分と類似した付き合い方をするようになると

 

楽しい時間を共有できるようになって来ました

 

これを友人たちだけでなく会社でも応用するようになると

 

あれだけ多かった敵が激減しました( ̄‥ ̄;)

 

因果関係は明白です、自分との付き合い方の変化が他者との付き合い方に反映されている

 

だから私はこの原因を大切に育てようと考えました

 

つまり

 

私は私にとって良い友であり続けているだろうか

 

これは私に問い続けるべき案件だと自覚するようになりました

 

この考え方で生きて行こうとすれば

 

他者との関係を良好にする為に、自分を変えるという選択はあり得ません¢( ・・)ノ゜ポイ

 

これは自己犠牲によって成り立つもので

 

その人のために自分が変わることが成長だと一概には言えません

 

無理やり変えれば心が歪んでしまう可能性が高いのです

 

そこで、私の個性でその相手とどう付き合うかを考えるようになりました

 

これが多様性と生きるコツでもあります

 

そして全ての人と仲良くする必要はない(。-ω-。)ノ ・゚゚・。ポイッ

 

相性というものがあります

 

人間は全て同じだという考え方が争いを生み出し戦争やテロに発展するケースは

 

少なく無いのです

 

だから同じように考えるべきだとお互いに押し付け合えば

 

イスラム教のシーア派とスンニ派のように殺し合いにまで発展します

 

例えばイスラム教は完全に男尊女卑の教えです

 

女性は働かなくてよい、男性の前を歩くな、家にすっこんでいろ

 

という考え方と男女平等を訴え女性の地位向上のために立ち上がった人たち

 

共存できるでしょうか( ̄‥ ̄;)

 

彼らは自分たちが信じている神様の教えに従っていて絶対的に信じています

 

つまり話し合で解決することは不可能です

 

それに合わせるか合わせないかの二択になります

 

これに反することは神様を裏切ることになるからです

 

となれば関わらないという付き合い方もありです

 

或いは距離を置いて必要以上に絡まないなどの配慮も必要になってきます

 

自分との付き合い方と他者の個性の違い、相違点との付き合い方も必要になってきます

 

このように相違点と向き合う場合

 

自分との付き合い方だけでは上手く行きません

 

創意工夫が必要になってきます

 

この相違点との付き合い方についてはまた機会があれば記事にします

 

今回は長くなるので省きますが

 

大体の場合自分との付き合い方によって

 

周りの人間関係にも反映される可能性は高いと思います(,,꒪꒫꒪,,) 

 

まる☆