十字路とか交差点とか辻(四つ辻)とか

 

古代日本では意味深いようで

 

危険な場所という解釈もありますΣ(¯∇¯;)!!

 

事故が一番多いのも交差点と言われていますが実際はどうなんでしょうか

 

子供の頃に自転車で彷徨いていた頃

 

交差点はいくつもの意思が交差しているイメージを感じていました

 

まだ純粋な直感閃きタイプだった頃の感覚で

 

未だ言語化は難しいのですが

 

私が何故自転車を乗れるようになったのか

 

その思い出も交錯していて( ̄_ ̄ i) 

 

親戚の家で実子のお古の自転車を与えられた時のこと

 

奴らは私の実家から私用の自転車代を受け取りながら

 

その金で自分の実子に新しい自転車を買って

 

古い自転車を私に渡しました( ̄ー ̄)恩着せがましい事を言われた記憶もあります

 

感覚的に記憶に残っているので子供なりに感じ取っていました

 

勿論私の性質上自分の感じたことが本当かどうか確かめずには居られない

 

異常発達した好奇心は実家へ生還した時父に

 

「自転車代をありがとう」とカマをかけてみると

 

「ちゃんと買って貰ったか」

 

という返事から確信に変わりました

 

人間は忖度が働くもので本当のことを引き出すには

 

一工夫必要だとその頃には既に学習していたから

 

少し回りくどい表現で事実確認をする癖がついていました

 

それは未だ変わっていません(=◇=;)

 

その為知らなくても良いことに気がつくことになり

 

余計な心の傷を作る事にもなります

 

虚偽の世界でも真実を知らないで生きる方が幸せだと思えることは多いのです

 

本当は私のことなど興味もないのに好きなフリをしている相手だけれど

 

自分のことが好きなんだと勘違いして生きる方が楽しく生きられるのに

 

またこの手の嘘は感覚で感じ取ってしまう困った感受性を生まれ持っているから

 

それだけなら思い過ごしだと自分の感覚を誤魔化して生きることも出来るのですが

 

私の場合、好奇心が異常発達しているから

 

それが事実かどうか必ず検証してしまいます

 

しかも父への確認と同じように相手が気付かないように

 

日常会話から相手の本音を引き出すやり方だから

 

相手は自分が本音を吐露していることにも気がつかない

 

同時にその相手に関わる子からも父からの聞きだし方の応用で

 

本人も気が付かないうちに吐露させたりします

 

仲間や友人を守る性質から嘘をつく可能性があるから

 

全然方向違いの話題から引き出した方が油断し易いことを

 

子供心に学んでいたと思います(=◇=;)

 

ぼっち時代に唯一好意的に接してくれた味方だと思っていた子が

 

実は裏で私の悪口をみんなに広めているなんて場面をなん度も体験すると

 

性格も捻くれるモノです( ̄‥ ̄)=3 フン

 

勿論、やられっぱなしは私の主義に反するから

 

上手く演じているその子の化けの皮を剥がしてやりました¢( ・・)ノ゜ポイ

 

そんな技術ばかり発達した気がしますΣ(¯∇¯;)!!

 

そのうち面倒臭くなり、適当に流しながら相手をしないようになりました

 

この手のタイプは非常に面倒な性質を持っているからです

 

同情的に味方になってくれる子もいますが

 

実は人に親切にしている自分に酔いしれるタイプも居て

 

私の事にそれほど関心が無いのです(ー_ー)!!

 

ついそう言う性質を暴露させてしまう言動を投げかけてしまうから

 

この手のタイプは意外と陰湿な仕返しをしてきますΣ( ̄‥ ̄;)汗

 

どうやら私は相手の暗黒面を引き出す性質を持つて生まれて来たようです

 

いちいちたこ焼きを焼く時ひっくり返すような事は止めました(。-ω-。)ノ ・゚゚・。ポイッ

 

社会人になって漸く、関わらない付き合い方は相手への思いやりだと気が付きました

 

その人はそれで幸せに生きているのだから

 

私はそんな生き方が性に合わないだけなので干渉しないのが

 

お互いの足を引っ張り合う事にならない効率的な生き方だと気が付いてからは

 

かなり楽に生きられるようになりました

 

全ての人と仲良くする必要はないのです¢( ・・)ノ゜ポイ

 

社会人になってそのことに気がつきました

 

厳密には高校生の頃にその土壌となる友人関係を築きましたが

 

それまでは意見のぶつけ合いや争いが日常茶飯事で

 

戦うセオリーや技術ばかり発達させた気がします・・・Σ(~∀~||;)

 

議論と論争の違いを知ったのも高校生の頃でした

 

論争は勝ち負けでしかない

 

そして論争に勝つのは口の達者な奴で必ずしも正しいわけではない

 

そして論争に勝っても恨みを買うだけだと

 

高校の時の友人から学びました

 

私とは違う考え方、感受性、生き方を持った子たちです

 

彼女たちの一人に

 

「まるちゃんは弁が立つから口で相手を言い負かしているだけでそれが正しいとは思わないでね」

 

と言われたことがあります

 

「まるちゃんの言っていることが正しいか最善なのかは、まるちゃんの人生で示してよね」

 

衝撃的な言葉でしたが

 

なるほどとも思いました(*゜▽゜ノノ゛☆

 

社会人になってからこの事は生かされています

 

自分の考え方や生き方の正当性は自分の人生の結果で証明してみせる

 

しかし反面違う子からは

 

「まるちゃんがどんなに成功して思うまま生きられたとしても、それはまるちゃんだからできる事で全ての人が同じようになるとは思わないでね」

 

驚きましたΣ(・ω・ノ)ノ!

 

このことで私は個性の違いと向き合うことになります

 

元々そのことで子供の頃に散々苦しめられて来たのです

 

人と違う捉え方や発想をしているだけで攻撃される場面は

 

実家へ出戻りしてから人に絡まれやすくなっても変わりません

 

常識や普通を絶対的に信じているからそこから外れる者は全て悪だと捉えるようで

 

私は随分悪者として攻撃されてきました

 

今はそう言う少数派もこの世界には必要だと確信しているから

 

イチイチ反応しなくなりましたが(;¬д¬)汗

 

実家へ出戻りしてからも

 

好意的に接してくれる人が増えただけで

 

敵意を剥き出してに絡んでくる奴らは以前無くならない

 

私一人VSクラスメート全員という構図は無くなりましたが

 

みんなと同じ考え方や感受性でなければ攻撃される

 

私は子供の頃には常識とか普通というものは人を裁くネタだと捉えていました

 

少なくとも私を否定する基準だと感覚的に嫌悪していたのですが

 

高校生の時に

 

「それは常識の問題ではなくただまるちゃんが気に入らなかっただけでしょ、常識をネタにまるちゃんを傷つけようとしただけ、第一常識なんて完全無欠な真理でも無いからいくらでも人を傷つけるネタに出来る、それは格言も同じね」

 

クールな友人の言葉です

 

時々彼女は核心を突いた言葉をさらりと投げかけて来ます

 

このように意見のぶつけ合いから始まり

 

互いに相手を理解することを学び

 

相手を理解する為には自分の立っている場所から

 

相手の立っている場所へ歩いていって

 

そこから同じ景色を見る必要があります

 

私の立ている場所とはものの考え方や生き方、今まで学んできた知識などです

 

つまり、私の感覚の外側へ一歩踏み出す

 

そこには彼女だけが感じている世界があって

 

ある時それとシンクロできる場面と遭遇してから

 

今まで青く見えていたものが緑色に見えた

 

この感覚は

 

画用紙の中央に花瓶を描かれた一枚の絵をよくよく見ると

 

双子が向き合った横顔に見えて行く感覚に近い

 

回転する片手を上げた人形の右回りが突如左回りに見える現象もそれに近い

 

見ようによってはそのように見えるのだと気がついた瞬間でした

 

厳密にはもっと違うカタチなのですが

 

その時の驚きは初めてこの現象を目の当たりにしたときによく似ています

 

その子にとってはそれが普通の日常なのです

 

捉え方一つで同じ出来事も全然別の可能性を生み出す考え方への気づきになりました

 

そして可能性や答えは一つだけではないことにも気がつきました

 

それを無理やり一つの考え方に当て嵌めようとすれば歪んでしまう

 

それは何故かと言えば、世界は立体的に存在していて決して平面ではない

 

平面的なスケールでは立体は計れない

 

物事を3Dで捉える訓練の始まりです

 

因みに直感閃きは4次元以上の感覚だと感覚的に感じています

 

ただ言語化できる範囲は3Dが限界では無いかと思います(;¬д¬)あせる

 

このように高校生の時に

 

意見のぶつけ合いがあったから

 

このことに気が付けたのですが

 

小学生だった私が自転車で彷徨(うろつ)いていた頃

 

感覚的に交差点、四つ辻に

 

いくつもの意思がぶつかり合っているイメージと重なりました

 

親戚の家ではお古の自転車を与えるだけで乗れるように練習に付き合ってもくれない

 

私は何度も転げながら一人で練習していると

 

見かねたお兄さんが手伝ってくれました

 

次の日もまたその次の日もそのお兄さんは手伝ってくれて

 

彼はバイク乗りでした、ヘルメットを貸してくれて後ろへ乗せてくれたり

 

「いつか私も乗りたい」と言ったのを覚えています

 

「それなら自転車は良いぞ、バランス感覚を身につけることができるから」

 

バイクを乗るのにバランスは重要です

 

後々曲芸乗りの練習に繋がり

 

それから十年以上経ってからバイクを乗ることを実現しています

 

後々この体験を振り返って潜在意識の働きは時空を超えていると思いました

 

子供の頃の交差点のイメージは畏怖だけでなく畏敬の念も抱いていた気がします

 

小さな四つ辻の真ん中に立って、後ろを振り返ったり、右を見たり、左を見たり

 

もし今私がどこへ行くかで違った世界と遭遇できる

 

そう思うとワクワクしてきます

 

これは人生の選択に通じる感覚です

 

そして

 

物理的な道だけでなく

 

人間の思考もまた方向性を持っていて

 

方向性はつまり見ている場所がありそれは視点として捉えることができます

 

思考は視点を変えることで違う答えも見えてきます

 

考え方の違う友人と議論することを幾度も重ねて行くうちに

 

視点の違いがぶつかり合っている視覚的なイメージで感じる事が増えました

 

意見がまとまらない程まるっきり違う視点でみんなが見ている状態も

 

時としてありましたが

 

私は感覚的にカタチのない議論の状況を視覚的イメージで感じ取り

 

「まるで視点の十字路だね」と口から出ると

 

彼女たちも共感しました°˖☆◝(⁰▿⁰)◜☆˖°

 

十字路は直角の➕とは限りません

 

類似しているけど実は全然違う似て非なる考え方も存在している

 

これは接点はあれど共に歩むことはできない領域です

 

ただ彼女たちも世界は立体的に存在している事を学んでいるから

 

自分とは違う道を決して否定しない(。-ω-。)ノ ・゚゚・。ポイッ

 

こう言う場合議論の着地点は期待できないから

 

この十字路はそれぞれの人生で証明することにしよう

 

となります

 

違う生き方ややり方なだけで

 

どれかが正解で他が間違いという正解は一つではないのです

 

それぞれがその視点で歩き出して自分の人生で証明する事は

 

相手の考え方を言葉で否定するなんて労力の無駄な事をするより有益です

 

でも議論することは決して無駄ではありません

 

論争ではなく議論から学ぶことや気づきは多いのです

 

彼女たちは私の立っている場所からでは決して見ることができない景色を

 

議論を通して私に見せてくれるから

 

勿論真剣に理解しようとしなければ決して彼女たちが見えている世界を

 

見ることはできません

 

その為には自分の感覚や考え方を棚上げする技術を身につける必要はありますが

 

新しい気づきから自分の人生を大きく好転させるヒントが隠されているモノです

 

そのままの私ではあり得ない選択肢を見つけ出すことができますからね

 

まる☆