ブロ友さんの昔の記事を読んでの

 

コメントのやり取りから

 

その印象の違いに驚いたΣ(・ω・ノ)ノ!

 

農民のために全生涯をかけて頑張った人というイメージだった

 

もしそれが事実なら

 

人としては素晴らしい人物だと思うが

 

反面、私のイメージとはまるで違う(。-ω-。)ノ ・゚゚・。ポイッ

 

そこで私の考察について向き合って考えてみた

 

大体の場合

 

人を批判したり、逆に称賛する場合

 

自分を投影している可能性が高い

 

ある人が優しいと評価できる人は実はその人と同じくらい優しい面を持っている

 

できるできないは関係ない

 

その優しさを示すことができなかったとしても

 

その人にはその優しさがある

 

きっとそのブロ友さんの性質には

 

そのブロ友さんの目に映る

 

農民のために身を粉にして動き回り遂に力尽きて倒れてしまった気持ちがある

 

だから、気持ちのある人だと思った

 

その人の本質はあらゆる所作の中で垣間見ることができる

 

言葉ではなく行動の中にも現れる

 

コメントの返信はブログではコメントを書き込んだ人への対応という行動だ

 

そこの言葉はその人の本当の人柄が出やすい

 

勿論返信が遅い人は頭で考えての取り繕うため見えない場合もある

 

だから、特に理由が見えない場合のみ、その返信は参考にしない(。-ω-。)ノ ・゚゚・。ポイッ

 

そのブロ友さんは返信が遅いですが

 

決して自分を偽らず真摯に答えてくれるから信頼することにした

 

信頼できる理由の一つとして

 

気に入らないコメントにはいっさい返信をしないスタイルだ(>▽<。。)ノ))

 

ブログ記事のコメントをみる限り他の人への返信は確実にしている

 

ということは私に対してのみの対応でしょう

 

それはそれでありだと思う(ΦωΦ)

 

私はその人の口から出る言葉以上に行動で判断する

 

この行動こそその人の人柄だと思う

 

少なくとも私に対しは、正直な気持ちをぶつけてくれている

 

嫌だったら全て無視する筈だから

 

気に入った、あるいは気になったコメントのみ返信してやる( ̄‥ ̄)=3 フン

 

中々面白いスタイルだと思う

 

他の人には見せないスタイルだ

 

そういう対応から推察して

 

返信がある場合は正直な気持ちをぶつけてくれていると考えられる

 

そこで、その方の宮澤賢治雑の軸が「不器用な人」

 

「時代に負けた」「農民たちを救いたい一心で生きた人」

 

私から見ると独特の捉え方だと思った

 

つまり、この方にはそういう心を持っている(ΦωΦ)

 

だから、そのように見えたのではないかと思った

 

そこで私の宮澤賢治像について再考察してみた

 

投影という意味では

 

恐らく私がそういう性質を持っているから

 

そのように見えているだけかもしれない(((((・_・;)

 

私の目に映る宮澤賢治氏は

 

多方面に渡りいろんなものに興味を持ち

 

いろんなことに手を出している

 

何もかも中途半端という捉え方もできるが

 

私はそのように捉えていない¢( ・・)ノ゜ポイ

 

彼が目指しているのはたったひとつ

 

誰もが幸せに笑って暮らせる世界を作ること

 

その為にあらゆるものに着手しながら実験と研究を繰り返していた

 

教員時代の話を当時生徒だった人から見た宮澤賢治先生はどんな人かのインタビューで

 

いつも何か考えていて、思いつくと飛び上がって喜んでノートに書いていた

 

授業中「今日は天気が良いから野外学習しよう」と連れ出されたり

 

そのまま自然観察になり、生徒を自由にさせて自分はひたすら何かをノートに書いていた

 

私の投影はそこから始まる(*'ω'*)☆彡

 

目的はひとつだが、あらゆる角度でさまざまなジャンルで

 

いろんな可能性を追求しながら組み立てたり、分離したりしていた

 

マルチ人間の部類に入るのではないか

 

カリスマ性があるため、誰にも理解されなかった(゚ω゚;A)

 

天才とは別の意味で理解されない存在となる

 

恐らくその世界を築くためにどうすべきか

 

小説もまた模索の痕跡を感じられる

 

必要なものは、何から始めるべきか、さまざまなものに着手して

 

実験と検証を繰り返していたのではないか

 

宗教の布教活動もそのひとつだった

 

作曲も音楽の中に人々の幸せを探っていたのではないか

 

国を超えて人の心を繋ぐ音の響きは人を幸せにできるのではないか

 

彼は多方面に手を出していても、目的は常にひとつだったと考察した

 

そして、その世界を築く足掛かり、土台作りとして農業の改革

 

私は食べることも生きるためだけでなく幸せを感じる一つの手段であると捉えている

 

料理もその一つで、私も料理が好きなのは

 

友人たちに振る舞うと友人たちが美味しいと感じた時

 

幸せそうな顔になるのが好きで年に何度か食事会を開催している

 

ただ生きるために食べるだけではなく

 

食事を楽しむことに着目したのではないか

 

勿論生きてゆくためには食事は欠かすことが出来ない

 

誰もが幸せに笑って暮らせる世界を築くための足掛かりとして

 

農業に目を向け着手したのではないか

 

などと捉えていた(=◇=;)

 

ヾ( ̄o ̄;)いやいや

 

今回この返信で、今まで積み上げてきた宮澤賢治像が音を立てて崩れてしまった

 

もしかすると全て自分自身の投影で作り上げた像かも知れない・・・(。_。;)゜:。アセ

 

私はそのタイプで

 

私が彼ならそのように生きていた

 

だからそのように見えたのかも知れない(=◇=;)

 

少しばかり引いて冷静に再検討する機会を得たと思う

 

いろんな見方があつて良いと思うが

 

自分がこれだと思い込んでしまうと

 

中々違う可能性に目を向けることは難しい

 

決めつけや思い込みから脱却して違う可能性へ目を向ける

 

良い機会を得たと思う\(*´▽`*)/

 

こうして違う可能性をより多く視野に入れることができれば

 

問題解決や窮地に立たされた時の脱却方法などアイデアの糧になる可能性は高くなる

 

まる☆

 

追伸

 

少しばかり気になるのは

 

もしかしてそのブロ友さんは私に対して無意識レベルで悪意を抱いている場合

 

本人も気がついていない場合もある(=◇=;)

 

それでも無意識に悪意が漏れ出すこともあるわけで

 

その場合も確実に跳ね返ってしまう(((((・_・;)

 

気に入っている人が苦しむことになるのは望むところではない

 

悪意は必ず跳ね返ることを私は嫌というほど体験してきた(=◇=;)

 

高齢で跳ね返り苦しむことを知りつつも知らないふりなどできない

 

その上で機会がある場合は、大袈裟に喧嘩別れする場合もある

 

勿論、その相手を嫌いになったわけではない(。-ω-。)ノ ・゚゚・。ポイッ

 

これは神様が与えてくれた機会だと感じた時のみですが(=◇=;)