日本は古来多様性を大切にしてきたようですΣ(@@;)

 

今最近多様性を主張する人が増えてきましたが

 

太古の昔から多様性の重要性を日本は学び採用して来た痕跡は見つけられます

 

明治維新から西洋文明のみならず文化まで取り入れた為

 

多様性より二元論に傾き

 

終戦後は多様性より二元論が強くなって来て

 

漸く二元論では多様性に富んだ世界を掴みきれないと見えて来た

 

私から見れば、古代日本の性質に回帰しつつあるように見えますΣ(@@;)

 

二元論は争いを生み、戦争に発展する危険性もあります

 

そしてジャッジする

 

二元論、二者択一はジャッジする思想になり易い

 

しかし多元論は選択する、或いは採用することになり

 

決して他の考えや思想を否定するわけではない

 

その為、出番という発想に繋がります

 

採用されなかった考え方や方法も

 

今は出番では無かっただけです

 

何れ別の機会に出番の時には活躍するでしょう

 

このように考えれば妬みなど生まれる余地が無くなります

 

寧ろ盛大に応援してあげる心境になれるでしょう

 

多元論では、成否や優劣などを決める必要が無いのです

 

間違っているや正しいという判断も必要ありません

 

今起きている問題で一番合致している考え方や方法を決めるだけです

 

あらゆる可能性を視野に入れることで

 

より多様性に富んだ人が続出する環境が生まれる

 

そう考えると古代日本は、個性的な人が多かったのではないでしょうか

 

そして、どれが正しいとか間違っているとか

 

自分が一番だとかそんな争いをする発想も生まれない

 

多元論的視野で見れば、どれも正しい、その出番の時にはそれが一番になる

 

そして出番はやがて、その時選ばれなかった人にもやって来ると思えば

 

誰も採用されなかった考え方や方法を否定的に見ることは無い¢( ・・)ノ゜ポイ

 

ジャッジが必要なのは、善悪、犯罪に関してなのですが

 

古代日本は恐らく神様との絆が深いため犯罪を犯そうとするだけで心が痛む

 

そう言う性質を持っているようです

 

これは、神様と日本人との絆であり

 

常に自分の心の中に神様がいるという感覚を受け継がれてきている

 

古代日本は多神教ではありますが

 

祖神様は太陽神と捉えている痕跡も多いことから

 

お天道様は見ている、お天道様に顔向けできない生き方はしない

 

更に自分の心の中にも神様がいる

 

これでは、それを否定でもしない限り犯罪なんてできないですよね

 

必然的に、神様を否定することで犯罪に手を染める

 

無神論が日本に入り込んでから犯罪は増えましたよねΣ(@@;)

 

調べてみればわかることですが

 

終戦後GHQが居なくなり、コミンテルンの活動が活発になってから

 

犯罪者は増える一方でした

 

しかしそれまでの日本は

 

神様との縁が濃いため良心の呵責は強く起こります

 

反省して心を入れ替えて生きる人も続出するわけです

 

たがら「村八分」という風習が生まれました

 

これは完全に犯罪を犯した人、悪さする人を見捨てることはしないで

 

その人が改心するのを見守る風習だと私は捉えています

 

改心すればまた村人として認めてあげる、許してあげる受け皿を持つ

 

とても暖かい風習ではありませんか

 

これを他の国の風習と混同して曲解する説も横行していますよね∑(-x-;)あせる

 

Σ( ̄□ ̄;)何の話や気づき

 

多元論的視野で見れば、あらゆる可能性を想定できる自由な発想を生み出せます

 

一方二元論は、たった二つに分類して、その他の可能性は切り捨てられる

 

或いは特定の考え方に釘付けにすることで

 

他の可能性に目を向けなくさせる一種の洗脳に近い状態になります

 

これとそれどっちが正しいと思う?

 

実はそれ以外にも可能性はあるのに

 

このように問われると、この二つに限定して考えるようになります

 

そしてより可能性の大きい方を指差します

 

ですが、世の中にはもっと違う考え方や可能性が多種多様に存在している

 

一見その中から一番有力な二つの可能性をピックアップしているように思えますが

 

こういうジャッジの場面に遭遇した場合

 

それ以外の可能性について目を向けて思考を働かせてみれば

 

まだまだ有力な可能性が見えて来るかもしれませんよ¢( ・・)ノ゜ポイ

 

それでも、この二択が有力だと思えた場合は

 

あらゆる可能性の中からその二つを探り出した可能性が高い

 

ですが

 

その二択よりもっと可能性のある方法や答えが見つけられた場合

 

意図的に一つの考え方に縛り付けている可能性が高くなります∑(-x-;)汗

 

何事も鵜呑みにせず、一旦自分の頭で咀嚼する習慣を身に着ければ

 

そう言う狡賢い心理操作に振り回されることは無いと思いますが

 

狡賢い人たちは、素直が一番、ひねくれ者になればろくなことにはならない

 

とまた、一つの考えに縛り付けようとするでしょうね(;¬д¬)汗

 

それとこれとは話が違います¢( ・・)ノ゜ポイ

 

父は屁理屈の天才でしたから、私は子供の頃に何度もやり込められました

 

特に常識や良識を利用するのが上手かったのを覚えています

 

「一般常識なんてものは利用するためにあるんだ、高々人間が決めたものだからな」

 

父の様な考え方の人が好き放題利用している可能性を考えてみてください

 

でも父は悪用はしなかった

 

ですが世の中には悪用する人は多数いて

 

そう言う人たちは二元論、二択を好む傾向にあります

 

しかも狡賢い人は

 

「世の中いろんな考え方があると思うが」という前置きをすることで

 

「この二つに分類されると思うんだ」

 

多種多様な考え方を総括して二つの種類を見つけ出したような印象を与える

 

実際は何の根拠もなく

 

その人がそのように思えば成功程度の代物ですが

 

これがまた、引っ掛かる人の多い事 (((((・_・;)

 

ある面父のお陰で、私も少しは気が付くようになりましたが

 

こういう相手に遭遇して絡んでこられた場合

 

相手の論説を最期まで聞き終えてから、質問します

 

「なるほど、その可能性はありますね」と決して相手の考えを否定しない

 

そのうえで

 

「この二つに分類した根拠はなんですか」とか

 

「こういう分類の仕方もありますが、それを選択しなかった理由は」とか

 

この二つの分類について、徹底的に議論する姿勢で

 

あくまで論争するのではなく、一緒に何が真実なのかを追求するつもりで

 

議論を始めると、狡賢い人は早々に退散して二度と私に近づいて来なくなります

 

誠実な人は、議論を喜び一緒になって考えてくれます

 

もしかすると違う可能性もあるかもしれないと自説に囚われることなく

 

一緒に考えてくれる人は信頼できますよね

 

自説に固執するあまり論争になりそうな相手は

 

恐らくそう言う考え方を植え付けられた可能性が高いため

 

信じ込んでいる人の耳には、私の声は届かない

 

私も気の長い方ではないから腹を立てて論争になる場合もあります

 

最近は、狡さを覚えたので早々に退散することにして

 

そう言う人には今後は関わらないようにする

 

この狡い生き方には少しばかり心が痛みますが(;¬д¬)汗

 

はっきりと違う考えを持っていることを伝えた方が後々困ったことにはなり難い

 

しかし一つの考え方に固執する人は粘着体質である人が多いため

 

後々まで恨まれ、しつこく付きまとわれ足を引っ張る悪さをして来られます

 

そう言う人は争い嫌いで一見優しそうでまた優しい一面も持っているのですが

 

私とは相性が悪い、どうやら私はそう言う人の長所を短所として発揮させてしまう

 

お互いの為には関わらない方が良いと判断しました

 

というのも、そう言うタイプの人もこの世界には必要だと考えているからです

 

その人の性質は決して悪いことではない¢( ・・)ノ゜ポイ

 

粘着体質は粘り強さ、根気強さ、そしてコツコツと一つのことを努力する能力

 

その長所が短所として発揮された場合のその人の持つ個性の可能性の一つです

 

長所と短所は同じものの裏表だと常々考えていますが∑(-x-;)

 

相手の長所を短所として発揮させてしまう相性というものがあるようです

 

多様性を重視して多元論的な視野で物事を判断するようになれば

 

必然的に個性や相性を考慮する必要性に気が付くようになります

 

世の中には相性が悪い個性が生まれたとしても

 

その二人の個性を中和するような個性の人も存在している

 

この人がいれば二人の相性の悪さが相殺されて安定した関係を築けます

 

集団生活をしていると、そういう体験をされた人は多くいると思います

 

嫌いではないが二人になると気まずい関係になる相手が居て

 

共通の友達がそこに加わることで、活気づき楽しくなれる

 

その共通の友人がどちらかに偏ると一人が孤独になりますが

 

平等に付き合ってくれると良好な関係を築けますよね

 

多様性に富んだ個性が続出する環境では

 

相性問題は深刻になるでしょうΣ(@@;)

 

二元論、二択、ジャッジをなんにでも当て嵌める困った風潮が

 

みんなと仲良くするしないという二択で追求されてしまうから

 

相性の悪い人とも関わらなければならない空気になってしまい

 

それが争いの火種になる場合も少なくないかもです

 

多元論、多種多様な個性を互いに認めることで

 

誰とでも仲良くなる必要はないことにも気が付きます

 

徹底的に意見を戦わせながら互いに成長して行く方法もありですが

 

どう生きるかは本人が決めることだと思います

 

私は高校生まで後者を選択して生きてきました

 

そしてある時気が付いたのです

 

私はどうやら口が達者で相手をやり込めて

 

完膚なきまでに叩き潰す傾向があることを(((゜д゜;)))

 

これでは、相手を生かすことはできない上に

 

自分の成長もままならない Σ(¯Д¯;)気づき

 

そこで、そういう相性の相手とは出来るだけ関わらないようにする生き方に

 

方向変換しました

 

自分でもびっくりするくらい揉め事が激減しましたよΣ(=°ω°=;ノ)ノハッ

 

但し多元論的な視野を持った生き方をするには

 

熟練が必要です(=◇=;)

 

多くの体験を経験に変えることで自分を成長させ

 

あるゆる可能性を身をもって体験することで熟成された判断力を養う必要がある

 

その場その場で適切な判断ができるようになれば

 

多様性を持った個性をそれぞれその時に生かすこともできるようになります

 

一長一短に身につく代物ではないヽ(;´ω`)ノ

 

だから、より多くの体験をする必要も、それを学習する必要もあるわけです

 

そう考えると、古代日本はそういう熟練者が多かったのかもしれません

 

前提として間違えたり失敗を繰り返した教訓も生きているでしょう

 

そう言う意味では人間は間違えながら学習して成長して行く生き物と言えます

 

ある特定なひとつに絞り込められた考え方に縛り付けられると

 

自由な発想は生まれなくなり、あらゆる可能性が消え失せます

 

自由な発想は多元論的視野で多様性を認めた姿勢から生まれるのかも知れません

 

多様性はLGBTだけでなく、考え方や生き方も含まれます

 

何事も一つを取り上げて肥大化させると、偏ってしまいます

 

場合によっては歪んでしまう可能性もありますΣ(@@;)

 

だから、一つのことだけに囚われることなく

 

いろんな場面でいろんな可能性を否定しないことも重要になってきますよね

 

例え自分の考え方と反目する考え方だとしても

 

お互いに相手の考え方を否定しないで

 

今回の場合どちらを選択するかを考えれば

 

その人の出番だと気が付くことも多くなり

 

後々までの争いの種にはなり難くなります

 

もちろん二元論、二択、ジャッジが必要な場面もありますが

 

それは全体的思考の中心にすると偏ってしまうため不向きです¢( ・・)ノ゜ポイ

 

これからは古代日本の多元論的な視野で判断する時代になるような気がします

 

まる☆の今日の記事は脱線していない快調ブログΣ\( ̄ー ̄;)いやしているぞ気づき