奴隷とキリスト教の出会い | とある音楽教師のつれづれ

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 1730年代から40年代になると、キリスト教の大覚醒運動(信仰運動)が起こり、アメリカ各地で有力な牧師が熱心に説教した。アメリカでのキリスト教の普及が遅れたのは、アメリカがあまりにも広大であったことが理由である。当時の交通事情では移動に時間がかかり、また土地の規模に対して牧師の数が圧倒的に不足していたのである。キリスト教がアメリカの地に定着するには、ヨーロッパ系アメリカ人が入植して100年以上の時間が必要であった。

 

  大覚醒運動時代の説教スタイルは、これまでの静かで理知的な説教スタイルにくらべて劇的で感情を揺り動かすものであったため、多くの人々は、この新しい説教に関わっていくようになった。その結果、この運動が拡大し、教会に足を運ぶヨーロッパ系の人が増加していった。アフリカ系の人々を教会に連れていくヨーロッパ系の人々もいたため、ここにおいて、アフリカ系の人々がヨーロッパの音楽にふれる機会が生まれたのである。ニグロ・スピリチュアルの起源はここまでさかのぼることができると考えられる。

 

 まともな教育を受けていないアフリカ系の人々にとっては、神学的で難解な教理よりも、ダイレクトに心情に迫りくる劇的な説教スタイルの方が受けいれやすかったため、次第にキリスト教に救いを求める奴隷が増えていった。プランテーション農園をもつ南部では、都会と違って教会が家のすぐ近くにあるわけではなく、遠くまで足を運ぶ必要があった。数少ない教会では、ヨーロッパ系とアフリカ系の人々が同時に祈りを捧げたが、座席は隔離されていた。

 

 南部のヨーロッパ系の人々にとってキリスト教をアフリカ系の人々に信仰させることは、ヨーロッパ系の人々の優位性を正当化する手段の一つにすぎなかった。宗教の力を借りて、主人を敬うこと、与えられる衣食住に感謝すること、主人の命をきくことをアフリカ系の人々に教え込んだのだ。こうしてアフリカ系アメリカ人がヨーロッパ系の人々に付き添われて教会に行く機会が増えたため、ヨーロッパ系の教会だけでは建物や牧師の数が不足していった。この不足を補うため、1780年代のフィラデルフィアでの設立を筆頭に、南北戦争前までに少しずつではあるがアフリカ系アメリカ人のための教会が設立されていった。これらのアフリカ系の教会は、奴隷の反乱をふせぐためにヨーロッパ系の人々によって管理されていた(当時はアフリカ系の人々だけで集まることが禁止されていた)。そのため、これらの教会の礼拝ではニグロ・スピリチュアルではなく、ヨーロッパの賛美歌が歌われたと考えられる。

 

 牧師については奴隷からも選出され、アフリカ系アメリカ人のハウススレイヴに教会の牧師を務めさせた。南部においては、北部地方よりも田舎であったことやプランテーション農業で収入を得るヨーロッパ系の人々が多かったため、教会の設立は北部ほど進んでいなかった。そのため、キャンプミーティングという行事が宗教行事としての重要な役割を果たした。これは、森の中にテントを張って10日間ほど泊まり込み宗教行事を行うものであるが、アフリカ系・ヨーロッパ系の人々が共に参加し、一晩中夜通しで祈り、大声で歌い体を動かし踊り続けた。

 

 この大覚醒運動では、地域・人種・性別・年齢を問わず、多くの人が牧師の説教に対して熱狂し、涙を流し、叫び踊り、罪を悔い改めたという。私は、キャンプミーティングの祈り・歌・踊りなどの様子を考察する限り、現在のゴスペルに通じるものがあるのではないかと思えてならない。