旧国鉄宮原線 廃線跡を行く 熊本編 | 九州より愛をこめて… 

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こんにちは、デジkota9です!

 

 

 

北里柴三郎記念館に置いてあった

旧国鉄宮原線遊歩道マップをみたのがキッカケだった

今回の廃線探訪。

 

旧国鉄宮原線 廃線探訪は大分編に続いて

熊本編に入ります。

 

そもそも宮原線っていうけど、宮原って名前はどこからきとんねん?

 

豊後森駅ー恵良駅ー町田駅ー宝泉寺駅ー麻生釣駅ー北里駅ー肥後小国駅と

駅名にも宮原って出てきませんし、読み方も「みやはら」ではなくて

九州らしく「みやのはる」

 

そんな宮原の謎もこの後わかることになっていますので

どうぞお付き合いください(`・ω・´)b

 

 

 

見所としては大分編ではほぼ駅跡を見ていく様子でしたが

熊本県に入っていきますと、廃線路は橋梁やトンネルを見ていくようになります。

そもそも沿線自体がアップダウンのあるエリアですけど

県境付近はなお一層起伏があって、きつい勾配が苦手な鉄道でも

通れるように整備されたものと伺えますね。

 

 

 

熊本編では遺構巡りになりますので

駅間ごとに細かく分けて遺構チェックしておきましょう。

 

麻生釣駅ー(麻生釣トンネル)(堀田橋梁)(汐井川橋梁)(堂山橋梁)ー北里駅

 

前回の大分編では八鹿酒造の倉庫になっている麻生釣トンネルまで見てきました。

旧国鉄宮原線 廃線跡を行く 大分編

 

 

 

麻生釣駅ー(麻生釣トンネル)(堀田橋梁)(汐井川橋梁)(堂山橋梁)ー北里駅

 

 

国登録有形文化財のプレート

 

 

 

 

堀田橋梁

山間部を通すには橋梁が欠かせないわけで、

見上げるような大きく立派なつくりです。

 

 

 

 

麻生釣駅ー(堀田橋梁)(汐井川橋梁)(堂山橋梁)ー北里駅

 

橋の両端は盛り土しているようです

 

 

 

麻生釣駅ー(堀田橋梁)(汐井川橋梁)(堂山橋梁)ー北里駅

 

 

国登録有形文化財プレート

 

 

 

堂山橋梁は脇の神社から入ることができまして、

お隣の汐井川橋梁がチラッと見える所まで歩いてみました。

 

 

 

 

 

 

 

 

橋梁を後にして、北里駅へ

 

豊後森駅ー恵良駅ー町田駅ー宝泉寺駅ー麻生釣駅ー北里駅ー肥後小国駅

 

 

 

 

 

所在地は小国町北里

北里柴三郎博士もここの地に誕生しました。

遊歩道マップによると駅を模して保存されているとありましたが

石積みのプラットホームは当時のまま保存されている感じですね。

すぐ隣には地元の物産店が営業しておりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、ここからは

クルマを近くの木魂館に停めてウォーキングします。

そう、旧国鉄宮原線遊歩道を歩いていくのですウインク

 

 

北里駅から肥後小国駅までの遊歩道の区間は草刈りをボランティアが行なっており、

安心して歩くことができるのです。

 

 

 

北里柴三郎記念館でいただいたマップ。広げると

北里駅ー(北里橋梁)(北里トンネル)(幸野川橋梁)(宮原トンネル)ー肥後小国駅と

ルートの全容がわかるようになっており…

 

 

 

 

裏面には宮原線遊歩道では最大級の橋梁である幸野川橋梁に

クローズアップされています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

北里駅ー(北里橋梁)(北里トンネル)(幸野川橋梁)(宮原トンネル)ー肥後小国駅

 

 

 

北里橋梁から下方には北里柴三郎記念館があります。

 

 

 

 

一旦車道に出てましたが、自然歩道へと入っていきますランニング

 

 

 

 

マウンテンバイクで通ると楽しいかなっていうような道をしばらく進み、

やがて見えてくるのが北里トンネルです。

 

 

北里駅ー(北里橋梁)(北里トンネル)(幸野川橋梁)(宮原トンネル)ー肥後小国駅

 

 

 

 

トンネルは利用のない時には消灯され、

通行する時に入り口の照明スイッチを押すようになっています。

 

 

 

足元が石がゴロゴロして少し歩きずらいのは線路だった名残でしょうか(^_^;)

 

 

 

 

出口で消灯

エコなのでございます真顔

 

 

 

 

 

 

 

遊歩道はやがて幸野川橋梁に。

 

 

 

 

 

北里駅ー(北里橋梁)(北里トンネル)(幸野川橋梁)(宮原トンネル)ー肥後小国駅

 

 

幸野川橋梁

見事な連続したアーチ橋です!

 

 

眼科に広がる集落

 

これまで見てきた5つの橋梁に加え、熊本県に7つの橋梁があります。

その7ついずれも2004年に国の登録有形文化財となっております。

特徴としては7つの全ての橋梁が、鉄筋の代わりにが使われる

竹筋橋(竹筋コンクリート)と呼ばれる工法が用いられてる点でしょう。

 

宮原線の歴史を振り返ると、恵良ー宝仙寺間が1937年に先行開業し

戦後の1954年に肥後小国駅まで全線開業。

宝泉寺から肥後小国の路線がちょうど戦時中と重なるわけで、

第二次世界大戦時の鉄不足により竹が使われたようなのです。

 

「竹?」と知ってちょっと驚きました。

工法としては竹の表面とコンクリートとの接着がしづらいとか

デメリットもあるみたいですが、

当時としては永久的に使用できるとも考えられていたようです。

 

 

 

 

 

 

 

トトロが出てきそうなトンネルがこの遊歩道ラストの宮原トンネル。

ここでようやく宮原というワードが出てきました(°∀°)b

 

 

北里駅ー(北里橋梁)(北里トンネル)(幸野川橋梁)(宮原トンネル)ー肥後小国駅

 

 

 

 

 

 

出たら消灯。思ったけどもし後から来てる人がいたら

消されたら困りますよね滝汗

 

 

 

宮原トンネルをあとにして、やがて遊歩道は国道387号線と合流。

 

 

 

 

 

ここで旧国鉄宮原線遊歩道を完歩。

およそ4kmのウォーキングでした。

 

 

 

串団子状の国道マークの下には「小国町宮原」

宮原線のルーツとなる宮原とは小国町の大字名だったのですウインク

 

 

 

 

 

まもなくゴールの肥後小国駅

 

豊後森駅ー恵良駅ー町田駅ー宝泉寺駅ー麻生釣駅ー北里駅ー肥後小国駅

 

 

 

 

 

かつての鉄道駅は今では道の駅小国となっていますが、

線路や駅標が保存されていました。

 

 

 

 

道の駅のジャージーソフトをいただいております(´∀`)

 

恵良から肥後小国までの宮原線区間26.6kmを含めた廃線巡りはこれにて終了。

 

 

 

 

 

 

 

そして前回記事で予告していました北里柴三郎記念館

こちらについても触れることにしましょう。

道の駅小国から駐車した北里の木魂館まではバスで戻りましたが、

記念館は違う別の日にじっくり訪れていました(・∀・)

 

 

新紙幣の肖像になると発表され、チェックはしていたのです。

まぁそもそもこの国道は阿蘇・熊本へといくのによく使う道路で

北里の地名も知っていれば北里柴三郎博士の記念館があることも知ってはいました。

 

 

 

 

 

北里文庫… 

ここは大正5年(1916年)に博士が私財1万円を投じて郷里の青少年に贈った、

当時熊本県立図書館に次ぐ大図書館と言われ、終戦時まで利用されました。

 

 

 

 

 

 

北里文庫は博士の功績を標す資料館になっていて、

館内はこの入り口のところだけ撮影OKとのことでした

 

 

 

 

北里柴三郎博士像

 

 

 

 

 

 

貴賓館… 

北里文庫と同時に建てられた和風木造二階建てで、小国杉の大木によって建てられています。

 

二階からの眺め

 

 

一階

 

 

 

 

 

 

 

生家を見に行きます。

 

 

 

 

 

 

 

生家の一部が残されています

 

 

 

施設を管理されているオジサンがよく話しかけてくれまして、

いろいろ話を聞くことができましたグラサン

 

北里柴三郎博士が新千円紙幣の肖像に決まってからの記念館は大いに賑わい

結構大変だった様子。まぁわかる気がします。

ワタシは平日に訪れたからそう混雑を感じませんでしたが、

休日は様子が違うみたいですね!

 

かつて北里村と呼ばれた現在の小国町北里。

北里姓もここの辺りでは6割いらっしゃるそうです。

貴賓館と隣り合った生家も元は眼下に見える集落にあったもので、

のちにこちらへと移されてきたのだとか気さくに話してくださり、

いろいろ聞いておいて手ブラで帰るのもなんですので

北里研究所の一筆箋をお土産に買って帰りました(^o^)

 

貴賓館から見えた生家は移設されたものだったのです

 

 

 

〆として北里柴三郎博士について触れておきましょう。

 

北里柴三郎は嘉永5年(1853年)に総庄屋北里惟信の長男として北里村(現在の小国町北里)に生まれ、明治4年に熊本医学校、さらに東京医学校に進み、卒業後は内務省衛生局に勤務。

その後 国の留学生として結核菌の発見者であるドイツのローベルト・コッホに師事し、ここで貴重な研究結果を次々に発表。とりわけ破傷風菌の純粋培養の確立と血清療法の発見は前人未到のもので、世界の医学界にその名を轟かせました。

 

帰国後は福沢諭吉などのの支援により、伝染病研究所を設立。我が国の近代医学に大きな足跡を止め、大正3年には自力で北里研究所を創設。昭和6年に死去するまで終生わが国の公衆衛生、医学教育、医療行政の発展に貢献してきました。

 

 

お札の肖像に成るべくして成った(予定の)御方ですね。

 

記念館の説明書きをほぼそのまま書き写しました(笑)

 

 

 

 

 

 

帰りには筌の口温泉山里の湯で炭酸泉を楽しんで帰りました(*´ω`*)