この世には、人智の理解を超えた、世にも奇妙な恐怖体験というものがある。
これは、何を隠そう、私の身に降りかかった身の毛もよだつアンビリバボーな体験である。
私は一応、これでも健康オタクでありながら、節約も日頃から血のにじむ思いで頑張り、慎ましく生きるしがない社会人だ。
健康と節約、この二つを同時に叶えるために、大浴場のついているジムに通っている。もちろん月会費だって決して安くはないのだが、「これで運動もできて、大きなお風呂にも毎日ゆったり入れるのだから、私にとってはメリットしかないのだ!」と、自分に呪いをかけるように通いつめている。
ある日のこと。
「さぁて、今日もいっちょ運動しますかっっ」
と、一人で妙な気合を入れ、夕方の街へ繰り出した。
洗面道具はいつも車に置きっぱなしなのだが、頭皮をマッサージするあの愛しき「ukaのケンザンブラシ」だけは特別だ。シャンプー類と一緒にジム用のカバンへ、いつも大切にしまっている。
「日曜日の割には、やけに空いてるな〜」
なんてのんきに感心しながら、車を降りる時にカバンの中を確認して、私は我が目を疑った。
「あれっ? いつもよりなんだかカバンの中がスッキリしてるな〜……って、おい!」
私の大切で愛おしいケンザンブラシが、綺麗さっぱり消えているのである。
「おいおい、ちょっと待て。あれはたしか、つい2週間前にネットで届いたばかりで、まだほとんど使ってない新品だぞ」
心の中では、盆と正月が同時にやってきたどころか、大パニックの盆踊りが開催されて大慌てである。
そう、何を隠そう前回も、私はジムにあのケンザンブラシを置き忘れ、まんまと誰かに持ち去られてしまったのだ。だからこそ、涙を飲んで新しく買い直したばかりなのである。
今回もフロントの優しいお兄さんに、「あの、忘れ物で頭皮をガシガシする黒いシリコンのブラシ、届いてませんか……?」と恐る恐る確認してみたが、無情にも「届いてませんねぇ」のお返事。
2回も忘れた私が悪い。それは1億歩譲って認める。
だがしかしだ! 2回もそれをちゃっかり自分のものにする奴の方が、圧倒的に悪いに決まっている。
しかも今回は、ほぼ新品のピカピカだ。今頃、どこかの誰かが私のケンザンブラシを使って、自宅のお風呂で極上のリラックスタイムを過ごしている――そう想像しただけで、私のこめかみの血管はプツンと音を立ててはち切れそうになった。くそっ、おのれ……!
そんなショックと怒りも、日々の慌ただしい生活の中で、少しずつ、本当に少しずつ薄まってきた矢先のことだった。
その事件は、ジムの一件からわずか4日後に起きたのである。
事件が発覚する2日前。
我が家のキッチンペーパーが、いよいよ芯だけになって寂しく回っていた。そこで私は、「よし、あそこが一番安い!」と評判のスーパーへ車を走らせ、張り切って2倍巻きの頑丈なキッチンペーパーを購入した。他にも、毎朝のヨーグルトにかける冷凍ブルーベリー(特大サイズ)など、生活必需品をしこたま買い込んだのだ。
そして、運命の事件当日。
朝、自分のためにお弁当を作り終わり、キッチンの片付けをしながら「さあ、キッチンペーパーでちゃちゃっと拭くか」と思ったその瞬間、私は奇妙な違和感を覚えた。
あれっ……?
買ったはずのキッチンペーパーが、どこにもないぞ。
おや? と首をかしげる。
それどころか、よくよく記憶をたどってみると、そもそもスーパーから家へ持ち帰ってきた記憶すらない。なんなら、レジを済ませてスーパーの自動ドアを出る時に、それを手に持っていた記憶すらいっさい合切、綺麗さっぱり消え去っているのだ。
(人間って、都合の悪い記憶だけは、こうも鮮やかに脳内から消去できるんだなあと、変なところで自分の脳の高性能さに感心してしまった)
そう、私はあの日、キッチンペーパーをエコバッグに詰め忘れたのだ。「だって、カバンに入らないんだもん」とばかりにレジの台の上にぽつんと置き去りにし、冷凍ブルーベリーの保冷のほうばかりに気を取られていた。冷凍ブルーベリーを買えたという謎の達成感だけで満足し、あんなにデカくて存在感のあるキッチンペーパーの存在を、レジを通したコンマ数秒後に完全に忘れていたのである。
気づいた時には、時すでに遅し。
「普段からあんなに節約を頑張っているのはいったい何のためなんだ……」
私は自分の脳みそを、小一時間ほど正座させて厳しく問い詰めたい気持ちでいっぱいになった。
「次こそは絶対に、絶対に忘れ物をしないぞ」
あんなに固く、何度も何度も心に誓ったというのに、人間はどうしてこうも同じ過ちを繰り返してしまうのだろう。
もしかしたら私は、何かを置き忘れるために、日々の節約を頑張っているのではないだろうか。
なんだか「ミイラ取りがミイラになる」どころの話ではなく、「忘れ物をするために生きている」ような気さえしてくる。
1週間のうちに、こんな情けない悲劇が2回も起こるなんて。
人生って、本当にアンビリバボーだ。
今日もどこかのスーパーの台の上で、私のキッチンペーパーは、寂しそうに次の買い手を探しているかもしれない。頼むから、次はもう少ししっかりしてくれよ、私の脳みそ。