桐島 聡(きりしま さとし、1954年1月9日 - 2024年1月29日)は、1970年代の日本のアナーキズム系新左翼過激派である東アジア反日武装戦線のメンバー。同派による連続企業爆破事件の容疑者として全国に指名手配されていた。


東アジア反日武装戦線(ひがしアジアはんにちぶそうせんせん)は、1970年代に爆弾テロを行った日本のアナキズム系の極左テロ集団、極左暴力集団。反日やアイヌ革命論などを主張し、昼休み中の通行人を含む8人死亡・380人の重軽傷となった三菱重工爆破事件など1974年8月から1975年5月にかけ12件もの連続企業爆破事件にて、三井物産や帝人、大成建設、鹿島建設、間組など海外進出日本企業を「アジア侵略に加担している企業」と標的にした。また、1974年(昭和49年)には昭和天皇に対する暗殺計画、「虹作戦」を計画した。

日本赤軍が人質を用い、1977年10月1日の超法規的措置で当時逮捕済みだったメンバーらを含む著名新左翼を釈放させた後、一部戦線メンバーは日本赤軍に合流した。

東アジア反日武装戦線内には「狼」「大地の牙」「さそり」の3グループがあった。東アジア反日武装戦線メンバーらは日本当局側に認知されていた過激派活動家とは異なり、表向きには学生や社会人として一般日本人のような生活を送りながら事件を起こしていたことも世間に衝撃を与えた。

昭和50年(1975)に日本赤軍がクアラルンプール事件、昭和52年(1977)にダッカ事件を起こし、両事件の人質との交換で1977年時点で逮捕済みであった著名新左翼11人(戦線メンバー3人)の釈放も要求。1977年10月1日午前3時半以降の超法規的措置で大道寺あや子(釈放後逃亡中。国際指名手配犯)、佐々木規夫(釈放後逃亡中。国際指名手配犯)、浴田由紀子(1995年に発見・再逮捕)が釈放され出国、日本赤軍に合流している。



グループ名の由来は、「資本家に苦しめられている被抑圧民衆を絶滅したニホンオオカミ」になぞらえたとれる。他にも一部マスコミで小池一夫原作の時代劇劇画『子連れ狼』の影響が見られる、と指摘された。

大道寺将司-法政大学に社会主義研究会という新左翼運動の足場を固めるべく、同大文学部史学科に入学。しかし、全共闘運動、70年安保闘争での日本政府への敗北を機に中退[24]。その後に東アジア反日武装戦線を結成し、リーダー格となる。1975年5月19日、大道寺あや子、佐々木規夫、片岡利明(益永利明)、斎藤和、浴田由紀子、黒川芳正と協力者1人らと一斉に逮捕された。1977年の日本赤軍の要求した超法規的措置による釈放を逮捕者の中で唯一拒否した。最高裁において1987年3月24日に死刑が確定。2017年(平成29年)5月24日、多発性骨髄腫により収監中の東京拘置所で死去。

大道寺あや子-星薬科大学卒業後、高校時代の同級生だった大道寺将司に高校の同窓会で「研究会」にオルグ (勧誘) された。この会をきっかけに交際、同棲するに至った。事件当時は薬剤師。1975年の上記で逮捕されていたが、1977年10月1日以後の超法規的措置で釈放後、国際指名手配中。

片岡利明-法政大学の文学部史学科に入学後、ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)に参加し、バプテスト教会改革運動を行なう。全共闘運動を経て、大道寺将司と出会い、東アジア反日武装戦線に参加。中退後に最初の事件を起こした。1975年に上記の逮捕をされ、最高裁において1987年(昭和62年)3月24日に死刑が確定。収監中。

佐々木規夫-東アジア反日武装戦線で唯一の大学進学未経験の高卒。大学入試に失敗後、家業を手伝ったあと上京し、齋藤和に学んだ韓国やアイヌ関連の「歴史を学び」、反日思想を深めていった。1975年の上記で逮捕されていたが、1977年10月1日以後の超法規的措置で釈放後、国際指名手配中。


大地の牙
グループの由来は、「国家も資本家もない理想の世界を目標とし、国家や資本家に立ち向かう大地の牙」になぞらえた、とされる。他にも、一部マスコミで小池一夫原作の時代劇劇画『御用牙』の影響が見られると指摘された。

齋藤和-東京都立大学人文学部中退。東アジア反日武装戦線“大地の牙”部隊リーダー。1975年の上記の浴田らと同時逮捕される時に服毒自殺。

浴田由紀子-北里大学衛生学部卒業後、東アジア反日武装戦線“大地の牙”部隊リーダー齋藤和の内縁の妻であり、住居提供&犯人秘匿をしていた。1975年(昭和50年)2月、朝日生命成人病研究所勤務へ転職。同年5月19日朝8時ごろ上記の逮捕。1977年(昭和52年)、日本赤軍の要求に基づき超法規的措置で釈放後日本赤軍に加入。国際手配される。1995年(平成7年)、ペルーからルーマニアに日系ペルー人を装って入国し、潜伏活動をしていたところを3月20日に身柄を拘束され、偽造有印私文書行使の容疑で国外退去となり日本へ向かう飛行機内で逮捕。2002年(平成14年)7月4日、東京地方裁判所にて懲役20年の判決が下される。服役中は栃木刑務所で過ごし、2017年(平成29年)3月23日に刑期満了で釈放。


さそり
グループ名の由来は、「自ら小さな組織の猛毒で、大きな建設資本を倒すサソリ」になぞらえたとされる。他にも一部マスコミで篠原とおるの劇画『さそり』の影響が見られると指摘された。

黒川芳正-東京都立大学卒業後に佐々木規夫を通じて大道寺将司に会い、東アジア反日武装戦線に参加。1975年に上記の逮捕をされ、1979年11月東京地裁で無期懲役の判決が下る。服役中。

宇賀神寿一-事件起こした当時、明治学院大学社会学部4年生。上記のメンバー同時逮捕では逮捕を免れ、1982年7月に京都板橋区内で逮捕。同年3月まで偽名で新聞販売店で働いていた。1977年3月24日、最高裁にて上告棄却し、無期懲役が確定・服役中。1990年2月に最高裁で懲役18年判決が確定した。岐阜刑務所に13年間服役し、2003年6月11日に出所。未決勾留期間も含め、合計21年間の獄中生活を過ごした。

桐島聡-最初の事件を起こした当時、明治学院大の4年生。逃走直前まで、東京都新宿区歌舞伎町の大衆料理店でアルバイトをしていた。1975年5月20日に渋谷区内の銀行で現金を下ろした後、31日に広島県の実家に「岡山に女と一緒にいる」などと父親に電話したのを最後に、足取りが途絶えていた。逮捕前の期間は、神奈川県内の工務店に長期間勤務していた。2024年1月に入り、体調を崩して路上で倒れ、その際に自ら救急車へ連絡し、救急搬送されて入院した。その入院中の同月26日に正体告白したことで発見。末期がん患者として偽名入院中の桐島(70歳)が「俺は(寿命がもう)最後だから捕まえてくれ」と病院関係者に打ち明けたことで漸く発見された。病状は深刻で意識を失うこともある状態であった。現在、警視庁公安部が捜査している。