アリストテレスは、『政治学』第3巻において、政体/国制を、「国民共通の公共の利益」(国民全体を「最高善」へと導いて行くこと)を目的とした正しい国制としての

「王制」(バシレイア)
「貴族制」(アリストクラティア)
「共和制」(ポリテイア)

と、誤った逸脱的国制としての

「僭主制」(テュランニス) - 「独裁者の利益」を目的
「寡頭制」(オリガルキア) - 「富裕者の利益」を目的
「民主制」(デモクラティア) - 「貧困者の利益」を目的

に6分類している。

                  正常                  逸脱的

単独者支配     王制                  僭主制

少数者支配     貴族制               寡頭制

多数者支配     共和制               民主制
             (制限民主制/立憲民主制)

    
続いてアリストテレスは第4巻で、大抵の場合、政体/国制は支配者(国民権者)の「数」に基づき、「少数者支配」(貴族制/寡頭制)と「多数者支配」(共和制/民主制)の2つに大まかに区別されているが、政体/国制の区別・分類において重要なのは、支配者(国民権者)の「数」ではなく、「何を基準として支配者(国民権者)が選抜・制限されているか」であることを指摘する。

そして「寡頭制」と「民主制」の区別で重要なのは「富」という基準の有無であり、それらと「貴族制」を区別する上で重要なのが「徳/善」という基準(によって政体/国制が逸脱することが積極的に防止されていること)の有無であること、また「共和制」(ポリテイア)は「寡頭制」と「民主制」の混合・相互牽制によって政体/国制がそのどちらかの一方の両極端に逸脱することが消極的に防止されている国制であることが述べられる。

そして一般論として、そうした「極端な民主制」「極端な寡頭制」という両極端に走るのを防止し政体/国制を安定させることができる、「中間層によって支配された混合政体」こそが、「現実的に最善の国制」であると指摘している。




これを小林節先生はこう表現しています。

「世襲議員」はもはや憲法違反だ 日本は事実上の「貴族政治」になっている (寡頭政治でいいと思います)
公開日:2023/10/23

 議員の世襲の弊害については久しく議論されているが、世襲議員はますます増え続けている。岸田首相、麻生自民党副総裁等、自民党議員の4割弱は世襲である。

 世襲議員を批判すると、必ず、彼らにも参政権と職業選択の自由が憲法で保障されている……という反論が返ってくる。加えて、彼らは身近で政治に接して政治に習熟しており、当選1回目でも政治家として活躍できる……という擁護論まで出てくる。

 しかし、まず、「政治を熟知している」というが、自民党政治家の家族として政治に接していたということは、「利権政治」のノウハウを熟知していることに他ならず、むしろ、今、限界が露呈した「役立たず」の政治を熟知しているにすぎない。

 また、彼らにも職業選択の自由と被選挙権があることは否定しないが、民主政治が正しく機能するためには何よりも選挙が「公正」でなければならないという、大前提がある。

 そういう点で、世襲候補は、先祖から「地盤(集票組織)、看板(知名度)、鞄(政治資金)」の「3バン」を「無税」で相続しているために、苦労せずに当選できてしまう。

 だから、当選後も、後援者の陳情だけを聞いても、国民一般の声に耳を傾ける必要はない。しかも、私も多数の世襲議員を見てきたが、皆、非常に恵まれた育ちをしているために、庶民の感覚が全く理解できない人物になってしまったように見える。

 しかし、政治は、大多数の庶民を含む「全国民の幸福の増進」を担う権力活動であるが、その点で、あたかも家業として権力を世襲した貴族のような世襲議員たちには民主政治を担う資格がないのでは、と疑わざるを得ない。まさに「世襲貴族」による政治である。

 日本国憲法は14条で「貴族」制度を明確に禁止している。

「失われた30年」と言われるほどに、事実上の「世襲貴族」である自民党議員たちに主導されてきた近年の日本の政治が、主権者国民にとって役立たずであったことは、もはや明白である。しかし、それは、彼らを当選させ続けた有権者自身が招いた「自業自得」だとも言えるであろう。