フランソワ1世(1494年9月12日 - 1547年3月31日)は、ヴァロワ朝第9代のフランス王(在位:1515年 - 1547年)。シャルル5世の曾孫でルイ12世の従兄に当たるアングレーム伯シャルル・ドルレアンと、サヴォイア公フィリッポ2世の娘ルイーズ・ド・サヴォワとの間に生まれた。

国内では王権強化に努める一方で対外的にはイタリア戦争を続けて神聖ローマ皇帝であるカール5世に対抗し、一時は神聖ローマ皇帝位をカルロス1世と争ったが敗北し、カルロス1世がカール5世として即位した。また、文芸の保護育成に努力した業績によって「フランス・ルネサンスの父」と呼ばれる。

概要

フランソワ1世はフランス・ルネサンス期を代表する国王とみなされている。この王の治世にフランスの美術および文芸は重要な発展をみることとなった。また、軍事、外交上もフランス史上の画期となる戦争や外交事件が発生している。

フランソワ1世には神聖ローマ皇帝カール5世という強大なライバルが存在したことから、常に両者の間にあって有利な相手と結ぼうとするイングランド国王ヘンリー8世の外交上の功利心を頼みとしなければならなかった。フランソワ1世の対カール5世政策は成否相半ばするものだが、実現の暁にはフランス王国の維持に支障をきたすカール5世の構想をくじくことには成功した。カトリックの両大国が敵対したことは、西洋キリスト教世界に重大な影響をもたらした。例えば、このころ興った宗教改革の拡散を容易なものとしたほか、なによりオスマン帝国にウィーン包囲を許し、ハンガリー王国のほぼ全土を占領させてしまっている。

国内の状況をみると、フランソワ1世の統治期間は宗教改革の急速な拡大とはっきり一致している。また、中央集権体制(絶対王政)の確立・戦費の捻出・芸術の発達のために国家全体の運営を掌握し最適化する必要が生じたことから、特に税収増を目的とする一連の行政改革を実施し、これらの改革は次代のアンリ2世にも受け継がれた。

議会の支援がなくとも資金を簡単に調達する方法がフランソワの治世に考案された。それは、年金型長期国債を国王の直轄財産と徴税権で担保するものである。これらの担保は、引受幹事のパリ市庁とリヨン銀行シ団へ移譲された。そしてこれら担保の果実が優先的に弁済へ充当された。国王は信用がなかったので、実際に発行された国債は年利10%をくだらなかった。

生涯

フランソワ1世のテストン銀貨。1528年 - 1540年。フランソワ1世治下で最も流通していた銀貨。

アングレーム伯シャルルとルイーズ・ド・サヴォワの間に、長女マルグリットに次ぐ第2子としてコニャックで生まれた。シャルルはこの2子を残して1496年に死去し、フランソワは1歳3か月余りでアングレーム伯を継いだ。

1498年に即位したルイ12世には男子がなかったため、サリカ法により従甥に当たるフランソワが王位継承者とされた。また、ルイ12世と王妃アンヌ(アンヌ・ド・ブルターニュ)との間に生まれた又従妹のクロードと1514年に結婚し、共同のブルターニュ公となった。翌1515年、ルイ12世の死により王位を継いだ。

クロードの死後は長男フランソワ、次いで次男アンリ2世が王太子(ドーファン)の称号とともにブルターニュ公位を継いでいる。

人文主義者(ユマニスト)の教育を受け、即位後はレオナルド・ダ・ヴィンチ、ロッソ・フィオレンティーノらの芸術家を保護し、ルネサンス様式の宮殿を建てた。1530年には、後にコレージュ・ド・フランスとなるコレージュ・ロワイヤル(Collège Royal)を設立し、ヘブライ語、古代ギリシア語、数学の研究を促進させた。

フランソワ1世は、2代前のフランス王シャルル8世が始めたイタリア戦争を継続した。1515年にマリニャーノの戦いに勝利、ミラノ公国を占領しスフォルツァ家を追放した。スフォルツァ家に仕えていたレオナルド・ダ・ヴィンチは、翌年フランスへ移りフランソワ1世が宮殿としていたアンボワーズ城界隈のクロ・リュセ城に居住し、ルネサンス文化を伝えることになった。1516年には、ローマ教皇レオ10世との「ボローニャの政教協約」で、国王は大司教・司教・大僧院長の指名権を持つことをローマ教皇に承認させ、フランスの国家教会主義(ガリカニスム)を完成させた。

1519年、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世が崩御すると、教皇レオ10世らの支持を得てフランソワ1世もローマ皇帝位の後継者候補になるが1票も獲得出来ず、スペイン王カルロス1世(マクシミリアン1世の孫)が皇帝選挙に勝利し、カール5世として即位する。これにより、フランスはハプスブルク家によってドイツ・スペインと周囲を囲まれてしまう状況が固定化した。

1521年から1544年にかけては、イタリアを巡ってカール5世と争い、1525年のパヴィアの戦いでは前線で指揮を取るが、捕虜となってしまう。スペインで幽閉されていた間の1526年にカール5世とマドリード条約を結ぶが、解放されるや条約は無効と宣言し、教皇クレメンス7世もこれを支持した。

カール5世に対抗するため、コニャック同盟で教皇、イングランド王ヘンリー8世らと結び、ドイツのプロテスタント諸侯(ルター派)を支援したり、異教徒であるオスマン帝国のスレイマン1世と秘かに結びつき[19]、第一次ウィーン包囲をけしかけたりもしている。フランソワ1世自身はカトリックであり、檄文事件をきっかけに国内のプロテスタントを弾圧している。しかし、ローマ略奪で教皇はカール5世と和睦、他のイタリア諸国もカール5世に従属し、1529年にフランスがイタリア放棄を約束したカンブレーの和約を締結した。

和平の一環として、1530年にカール5世の姉でポルトガル王マヌエル1世の未亡人であったレオノール(エレオノール)と2度目の結婚をしている。しかし、以後もカール5世との戦闘を継続、ドイツのプロテスタント諸侯が結成したシュマルカルデン同盟と同盟を結んで戦ったもののハプスブルク家の優勢を覆せず、最終的に1544年にクレピーの和約を結び、イタリア政策は失敗に終わった。1547年3月31日にランブイエで死去、長男フランソワに先立たれていたため、次男アンリがアンリ2世として即位、イタリア戦争を再開した。

フランソワ1世はアメリゴ・ヴェスプッチのスポンサーとしてその航海を援助した。新大陸の中南米を押さえたカール5世に対抗し北米を狙ったためである。またジャック・カルティエをカナダ植民に送り出し、ヌーベルフランス(フランス領カナダ、現在のケベック州)の基礎を築いている。

また、芸術の後援者であったフランソワ1世は、名画『モナ・リザ』を携えたレオナルド・ダ・ヴィンチを含む多くのイタリア人芸術家の支援を行い、結果的にフランスのルネッサンスを推進させた。フランソワ1世の治世は、フランスの中央集権国家としての始まりの時期であった。


フランスを事実上統一したヴァロワ朝は、イタリアへと領土的野心を向け、シャルル8世は1494年にイタリア戦争を開始する。1498年、ヴァロワ家嫡流はシャルル8世の死去で断絶し、シャルル5世の子のオルレアン公ルイの孫であるヴァロワ=オルレアン家のルイ12世が即位した。

1515年に死去したルイ12世にも世継ぎがなく、同じくオルレアン公ルイの孫であるヴァロワ=アングレーム家の従兄アングレーム伯シャルルの子フランソワ1世が王位を継承した。

以後、フランソワ1世からアンリ3世まで5代の王が続いた。

その間も続いていたイタリア戦争では、同じように統一を果たしたスペインと対立し、後にはスペインとオーストリアのハプスブルク家によって挟撃され、国力は衰えた。その後、フランスでは宮廷内部の権力闘争や宗教紛争が相次いだ。このような中で王朝も衰退し、1589年に第13代国王アンリ3世が宗教紛争の最中に一聖職者ジャック・クレマンによって暗殺された。アンリ3世には子がなかったため、ヴァロワ朝は断絶し、ブルボン朝に代わった。

こうしてヴァロワ家の嫡流は途絶えたが、王位継承権のない庶流はその後も続いた。


ローマ劫掠(ローマごうりゃく)は、1527年5月、神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世の軍勢がイタリアに侵攻し、教皇領のローマで殺戮、破壊、強奪、強姦などを行った事件を指す。

教皇クレメンス7世(レオ10世の従弟)はフランス王と皇帝のどちらに就くか揺れており、フランスと結んだ事が、ローマ略奪のきっかけになる。

1526年、パヴィアの戦いに敗れカール5世の捕虜になっていたフランソワ1世が釈放されると、カール5世に対抗するコニャック同盟を結成した。教皇もこれに加わり、皇帝と同盟していたフェラーラ公アルフォンソ1世・デステを破門し、ローマに幽閉した。これに対し、カール5世はローマへ軍勢を差し向け、スペイン兵、イタリア兵などからなる皇帝軍とドイツの傭兵がローマに進軍した。ドイツ兵にはカトリックを憎むルター派が多かったという。また長期の行軍に給料の支払いも悪く、飢えた兵も多かった。

1527年5月6日、ローマで皇帝軍と教皇軍の衝突が始まるが、クレメンス7世はサンタンジェロ城に逃げ込み、教皇軍は敗北した。この時、皇帝軍の指揮官であったブルボン公シャルル3世が戦死したが、指揮官を失ったにもかかわらず、配下の兵たちの士気はむしろ高まった。そして統制を失った軍勢はローマで破壊と略奪の限りを尽くした。市民らはなすすべもなく、6月に教皇は降伏した。皇帝軍がローマを撤退したのは翌年であった。

モーリス・セーヴはその惨状を以下のように綴っている。

「 駝鳥〔カール5世〕の呼び声を聞いた天翔ける鹿〔ブルボン公〕は
荒らされたねぐら〔没収されたブルボンの領地〕をはや捨てて飛び立つ
舞い降りたのはヨーロッパの一番高きとこと〔ローマ〕
そこならば平安と休息を得られると信ずるがゆえ
神聖この上なき彼の地を、天翔ける鹿は侵す
その悪名高き冒涜の手〔ドイツ傭兵隊〕をもって……」


ローマに集まっていた文化人・芸術家は殺され、あるいは他の都市へ逃れた。文化財は奪われ、教会なども破壊され、ルネサンス文化の中心だったローマは壊滅、停滞の時期を迎えた。これによって1450年代から続いていた盛期ルネサンス時代は終わりを告げた。

カール5世自身はカトリック教徒であり、これほどまでの略奪を意図していたわけではなかったが、事態は皇帝側に有利となった。1529年、教皇と皇帝はバルセロナ条約を結んで和解、イタリアはカール5世の支配下に入った。1530年、ボローニャにおいて教皇クレメンス7世の下、カール5世に対して神聖ローマ皇帝の戴冠式が行われている。アルフォンソ1世も破門を解かれ、モデナとレッジョを与えられた。

なお、フィレンツェ共和国を治めていたクレメンス7世の庶子アレッサンドロもこの騒ぎに乗じた市民に追放されたが、1530年にカール5世の支援で復帰、1532年に公爵位を授与され、フィレンツェ公国を成立させた。