自民党憲法改正推進本部
 
平成23年12月20日現在(平成21年12月 4日設置)

本部長
保利耕輔

東京都出身。1947年に東京高等師範学校附属国民学校(現・筑波大学附属小学校)、1953年に東京教育大学附属中学校・高等学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。

1958年、慶應義塾大学法学部卒業後、日本精工に入社。1974年にはフランスのNSKフランスSA社長に就任した。

父・保利茂の死去に伴い、後援会の要請を受けて1979年の第35回衆議院議員総選挙に佐賀県全県区から自由民主党公認で出馬し、初当選(当選同期に佐藤信二・畑英次郎・麻生太郎・岸田文武・白川勝彦・丹羽雄哉・亀井静香・吹田あきら・宮下創平・亀井善之・船田元など)。1982年、衆議院議事進行係を務める。

自民党入党後は田中派に所属し、田中派の分裂に際しては竹下登が結成した経世会に加わる。竹下派会長・金丸信の後継をめぐり派内が小渕恵三を推すグループ、羽田孜を推すグループに分かれた際は綿貫民輔らと共に最初はどちらにも与さず、後に平成研究会(小渕派→橋本派)に参加した。1990年、第2次海部内閣で文部大臣に就任し、初入閣を果たす。

1999年、小渕再改造内閣で自治大臣、国家公安委員会委員長に就任し、2度目の入閣を果たす。小渕首相の危篤に伴い、急遽居抜き内閣の形で組閣された第1次森内閣でも再任された。

2005年7月、小泉純一郎首相が成立に執念を燃やす郵政民営化法案の採決で反対票を投じた。そのため第44回衆議院議員総選挙では自民党の公認を得られず、佐賀県第3区から無所属で出馬。自民党公認の広津素子らを破り、10回目の当選を果たした。総選挙後の特別国会では、再提出された郵政民営化法案に一転、賛成票を投じるも、自民党を離党する。


翌2006年11月、自民党に復党届を提出。12月に党紀委員会で認められ、約1年ぶりに自民党に復党した。保利の復党により、自民党内では佐賀3区で当選した保利、比例復活で初当選した広津素子のいずれを次期総選挙において佐賀3区で公認するかが問題になったが、自民党佐賀県連はより強固な後援会組織を有する保利を公認するよう党本部に求めた。2008年8月、福田康夫総裁の下で自由民主党政務調査会長に就任。党執行部入りにより、次期総選挙での佐賀3区での公認はほぼ確実視された。福田は9月に突如辞任し、後継の麻生太郎総裁の下でも政調会長に留任した。

2009年8月、第45回衆議院議員総選挙に佐賀3区から出馬。自民党を離党しみんなの党に入党して立候補した広津らを破り、11回目の当選を果たした。総選挙後、党憲法改正推進本部長に就任。

2012年の第46回衆議院議員総選挙で12回目の当選を果たし、横路孝弘の後任の衆議院議長に名前が挙がったが、これを固辞した。同年、衆議院憲法審査会長に就任。


血液型はAB型。
政治家の年金未納問題が注目された際に未納が発覚。
頑固一徹で生真面目な性格で知られる。日歯連闇献金事件をめぐり当時の平成研究会会長・橋本龍太郎が会長を辞任した際、後任に名前が挙がるも、就任の要請をかたくなに固辞した。
郵政民営化法案に反対し、自民党から刺客を送り込まれた所謂「造反組」の中では、平沼赳夫と並び最強の地盤を誇るといわれる。05年の第44回衆議院議員総選挙では佐賀3区から無所属で出馬して当選し、自民党に猛烈な逆風が吹き荒れた09年の第45回衆議院議員総選挙でもみんなの党から出馬した広津素子らに比例復活すら許さず当選を果たした。


頑固一徹なら・・郵政選挙で勝って、一転して賛成票を入れ、翌年復党するな!どこが頑固なんだよ~。

当たっても当らなくても納得する馬券-hori_kousuke
保利耕輔



最高顧問の面々
当たっても当らなくても納得する馬券-aso_taro
パナマ帽の方が似合うのか、麻生太郎

当たっても当らなくても納得する馬券-abe_shinzo
何もいうことはありません。(笑) 安倍ちゃん

当たっても当らなくても納得する馬券-fukuda_yasuo
福田康夫

当たっても当らなくても納得する馬券-mori_yoshiro
イット革命の森喜朗