「パズルボックス」と言いたくなるくらい、監督の作品の中では難解な作品だと思いました。先週見たのでもう記憶はあいまいなんですが、覚えている範囲で感じた印象を綴っていきます。

 基本、少年時代の監督が主人公に投影されていました。自分を美化せず、卑怯な所もきっちり描くのは好感が持てます。

 舞台はおそらく太平洋戦争初期で、戦争で荒稼ぎする父親、火事で亡くした母と、後妻になった母の妹。お屋敷に越してきた主人公の真人(まひと)が、家の庭の茂みを分け入っていくと、枯れた川床の側に建つ不思議な建物を見つけます。

 転校先ではいじめにあい、新しい母との関係はぎこちないまま。お腹の大きくなった彼女は重いつわりに寝込み、ふらふらと屋敷を出て不思議な建物に向かいます。

 屋敷総出で彼女を探し始める中、不思議なアオサギに導かれて、真人は建物の中に足を踏み入れます…

 

 

 ここから物語は怒涛のファンタジーへなだれ込みます。

 建物の中は、あの世にも感じられる、現世と異なる世界で、その由来は空から降ってきた隕石だというのだから、設定がぶっ飛びすぎてて驚きました。真人はそこで亡き母親(この世界では火の精)や大叔父(この世界の管理者)に出会い、義母とも再開します。

 そして、ファンタジー要素が満載のすったもんだがあり、義母を現世に連れ帰って一件落着…みたいな流れだったと思います。

 

 まあとにかく、鳥、鳥、鳥の乱舞です、サギにコウノトリ、インコにペリカン、様々な種類がそれぞれの役目を持って登場します。が、正直特筆するほどの描写はあまりなかったかと。まあ、話の筋を理解するのに忙しくて、感動する余裕がなかった、というのが正直なところです。同一のキャラクターが、はっきりした説明もなしに、姿を変えて出てきたりします。ですから、キャラクターの関係を注視していないと、話の筋を見失いかねません。

 

 ただ、専制君主に盲従し、消費にいそしむインコ達は面白かったです。インコって人の言葉を真似しますよね。言葉の意味も分からず誇らしげに復唱する姿を、主体性を持てない人間の例えとして用いたのだと思います。わらわらと群れ動くインコが、権力にへつらい、快楽を追いかける大衆のカリカチュアとして描かれていて、もの悲しくも不気味な可笑しさがありました。捉えた真人の前で包丁を研いだり、瞬きのしない目でガン見するインコのシュールさは必見です。

 

  こうした社会批判の果てに、物語は真人に選択を迫ります。このまま建物(幻想)の中に留まるか、理不尽で醜い現実の世界に戻るか。真人はすったもんだの果てに、義母を連れて現実の世界に帰ります。争いの絶えない醜い世の中だけど、身近にいる大切な人たちのために生きていこう…みたいなメッセージだったと思います。

 

  複雑な家庭環境から生まれた鬱屈した感情を振り切るために、監督はこの映画を作ったのかなと感じました。主題が個人的過ぎて、気恥ずかしいから難解なファンタジーに紛れ込ませたのかな、と。 

 

 父や義母への反発をぐっと飲み込み、最後にはきれいごとを口にして現実へと帰っていく真人の姿に、何とも言えない煮え切らなさを感じました。

 

  ルパンやラピュタ、トトロの頃のように、朗らかに笑い、優しく抱きしめ、勇気をもって悪に立ち向かい、ユーモアで苦境を乗り越えるような姿はここにはありません。観客を楽しませ、希望を与えることを第一に優先していた頃の宮崎駿は、もうここにはいません。

 

 人間の美しさではなく、醜さばかりを主張するようになった今の監督に、共感するのは難しいです。

 職業監督としての矜持を、もう一度思い出してほしいな、と切に感じました。

 

※このレビューは、Yahoo Japanの映画レビューサイトに投稿した文章を、加筆修正したものです。