こんにちは、マティです。

今日は、アルバイトで言われたことをきっかけに「演じる」ということについて語ろうと思います。


「分人」という言葉があります。

私は、10年くらい前に平野啓一郎さんの新書『私とは何か 「個人」から「分人」へ』で知りました。


私たちは、個人が一単位であると思って生きています。

個人は英語でindividualと言いますが、この語もin(否定の接頭辞)divid(分ける)ualと分けることができ、分けられないという含意を有しています。

しかしながら、個人が全ての場面で同一であるとは考えにくいところもあります。

例えば、同じ人でも、家族,友人,パートナー,知らない人に見せる顔は、それぞれ違うでしょう。

だからこそ、個人という画一のものが存在すると考えるのではなく、関わる人や場面によって「分人」が現れるとする方が適切ではないか、というのが前述の本の主張であったと記憶しています。


日常語に置き換えて簡潔に言えば、私たちは人や場面に応じて「キャラ」を演じ分けているよね、ということだと思います。



さて、ここから本題に入りましょう。

先日、本屋さんでアルバイトをしていると、上司の方から「君は上辺は繕ってるけど、変わってるよね」という旨のことを言われました。

前にも言ったことがある通り、私は変わっていることが良いことだと思っているので、褒められたと認識したのですが、上辺を繕っているという部分に引っ掛かりを覚えました。


というのも、私は別に上辺を繕っているつもりもないのです。

勿論、他人と関わるとき多少自分を「調整」している感覚はあります。

それを演じている或いは繕っていると言えば、それまでなのですが、なんか自分ではそういうものでもないようにも思うのです。


私にとっては、演じるという行為はキャラを(1から)作ることですが、「調整」は自分の中にあるものを時と場合に応じて、大きくしたり小さくしたりすることなのです。

換言すると、私は他人と関わるとき、自分の中に多少は在る社交的な自分を嵩増ししているのであり、演じているつもりもなければ、ムリもしていないのです。

これは、あくまで言葉に対する感覚の問題で、私が「キャラ」や「演じる」という語に偽るというニュアンスを感じているからですね。


まあ、本当に私がムリをしていないかと言われると難しくて、私が根本的に他人とあまり関わりたくないのは、この調整自体に無理をきたす要素があるのではと思ったりもします。

ただ、あくまで私の肌感覚では、特に何かに悩むこともなく過ごせていますね。



この辺りの話は、もっと膨らませられるようにも思うのですが、今回はこんなところにしておきます。

次回は、またアルバイトの出来事をきっかけに何某かの話をしようと思っています。

よろしければ、またご覧ください。