こんにちは、マティです。

今回も、前回に引き続き、秋学期に書いた考察レポートから、いい感じのやつをピックアップしたいと思っていたのですが、もういいのがなくて。。

しかも、昨日から体調を崩してて。

なので、同授業の最終レポートを(ほぼそのまま)使おうと思います。



Title:borderの今昔 ―仮想・現実とソフト・ハード-

 

【序論】

現代社会に生きる私たちは、毎日数々のborderを越えている。島国日本の住人にとって越境すると言えば、飛行機を使った空路での国境移動を連想しがちであるが、borderの意味するところはもっと広範である。私たちの日々の生活を思い起こしても、朝起きて自分の部屋を出るとき、自宅を出発して大学に向かうとき、電車に乗るときなど、私たちは様々な公的・私的領域を横断して日々の生活を送っているのである。では、この境界を越えるという行為は、人間の原初的な行為なのだろうか。グローバル化の進展に伴い、世界は一つになりつつあるといわれるが、borderは将来なくなるのだろうか。本稿では、borderの歴史を振り返りつつ、現在のborderの意味および抱えている課題について、情報技術を補助線にして考えてゆくことにしたい。

 

【本論】

国境には、多くの功罪がある。その最も大きな罪は、争いの火種になることであろう。では、国境など無くしてしまえばいいかといえば、事はそう単純ではない。例えば、世界最大のスポーツイベント、オリンピックにおいては、多くの人々が自国の選手たちを応援する。もし、全アスリートが地球代表ということになってしまえば、私たちはこの祭典を楽しむことができなくなるのではないだろうか。つまり、私たちのアイデンティティにおいて、国籍は非常に大切な要素なのである。自己同一性と平等は、親和性が低いのだ。

私たちがもつ世界地図には、かなり明確な国境線が引かれている。しかしながら、borderが昔からこのように厳密であったわけではない。(中略)このような液体的であった境界が、固定化される契機になったのが、近代ヨーロッパにおける国民国家体制の普及である。それまで存在したオスマン帝国などの多国籍国家は、時代遅れのものとされ、国家の境界を国籍および言語と対応させることが目指された。この取り組みを経て、国や民族のアイデンティティが、新たな国境を形成する原因を生んだ一方で、新たな国境が国や民族のアイデンティティを作り出した[3]

現代社会は、この国民国家体制の延長線上にある。EUなどの国家横断的な機関が作られている一方で、その未来は明るくない。確かに経済分野においては、世界的に貿易は活発になり、関税も撤廃される傾向にある。しかし、政治においてはむしろ逆コースである。1992年、宇宙飛行士の毛利衛さんは「宇宙から国境線は見えなかった」と言ったが、今の世界には目に見える国境線がますます増えているのだ。2011年時点の合計で、世界の国境線のうち、およそ20,000kmが壁やフェンスで覆われているのである[4]。地球1周が約4万kmであるから、地球半周分の長さに上る。

乗り越えがたい境界が引かれつつあるのは、現実世界だけではない。ここ数十年の技術でありながら、もはや現代社会のインフラになったインターネット空間がそれである。今となっては見る影もないが、インターネットは登場から暫くの間は、社会を良くするものと考えられていた。(中略)しかしながら、今日の私たちの目により鮮明に見えてきたのは、SNSが生む社会の対立である。私たちは連帯するどころか、自分と似た人たちばかりと関わるようになっている。そして、それを手助けしているのが昨今の情報技術の進展である。ここで生まれつつある新たなborderは、これまでのものと質的な違いがある。今までのような物理的でハードなものではなく、フィルター的でソフトなものになっているのである。また、今までborderを形成するのは人間の仕事であったが、現代では数学上のアルゴリズムがこの作業を行っているという差異もある。

ここで強調しておきたいのは、borderが目に見えなくなったからといって、消えたわけではないということである。むしろ、私たちからは見えなくなったという方が正しいだろう。これからもアルゴリズムは、私たちのデータを集め続け、またその規模・種類を増やしていくはずだ。そのフィードバックを通じて、私たちの世界は生きやすくなるだろう。しかしながら、だからといって私たちの生活の質が高くなるとは限らない。確かに、レコメンド機能を通じて、私たちが興味を持ちそうなことを次々と教えてくれれば、次のコンテンツを探す手間は省けるし、便利だろう。現代の若者が大事にするタイパという観点から見れば、優れた戦略かも知れない[6]。しかしそれは、効率の価値を過大に評価しているからではないだろうか。当たり前のことであるが、効率的な人生が良い人生ではないのである。

多様性という考えは、自分とは違う人を見て見ぬ振りをして、関わらないようにすることではない。私は、私が好きなようにするから、君も他人様に迷惑をかけない範囲で好きなように過ごしたらいいよというような態度でもない。互いの違いを知ろうとする試みの中で、その差異を理解しようとする相互的な行為である。同じように、いくら居心地がよくとも、私たちはインターネット空間の心地よい自分だけのフィルターバブルの中に居続けるべきではないのだ。億劫だとしても、そのような泡から身体を出して、社会に身を投じなければならないのである。

 

【結論】

borderは、かなり前から存在してきた。しかしながら、その意味は今日と同じではない。初めは、もっと曖昧なものだったのである。それが時代を経るにつれて固化されていき、国民国家体制という一時的な帰結を迎えた。しかし、それも現在に近づくにつれ、揺らいできた。その一因が超国家的な組織の出現であり、もう一つの原因がインターネットの普及である。未来の話をすれば、borderはきっと今後もなくならないだろう。国境が、これまでの歴史で数々の争いの元になったことを考えれば、それは悲しい展望に思われるかもしれない。しかしながら、私たちが誰一人同じではないことを踏まえれば、完全にフラットな世界というのも違和感がある。むしろ、今後の社会で問題になりかねないのは、私たちが心地よい情報の繭に一人で閉じこもってしまうことだ。

 残念なことに、この社会は平等には程遠い。そして、この傾向は今後ますます悪化してゆきそうである。トマ・ピケティが看破したように、現代社会では、資本収益率が経済成長率を上回っているのだから[7]。個人の努力では如何ともしがたいところで、私たちの生の大枠が決められてしまうという現状は、速やかに是正される必要がある。とはいっても、個人ができることなど限られている。そんな中で、私たちが今すぐにでも出来ることは、そのような格差が存在することを知ることである。そんな当たり前のことに気づきにくくなるような見えないborderを数学的なアルゴリズムが作りつつあるとしたら、私たちはそのようなborder作りに積極的に反対しなければならない。

 


[1] Khalid Koser, Introduction to International Migration, revised (Oxford University Press, 2016), 23

[2] Ibid., p.35

[3] Ibid., p.44-45

[4] Ibid., p.9

[5] 楠根 重和, インターネットと民主主義 (金沢法学, 2005). 48(1), 171-198

[6] 稲田 豊史, 映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形 (光文社新書, 2022)

[7] トマ・ピケティ, 21世紀の資本 (みすず書房, 2014)



この授業では、これまでと違った参考文献の書き方を求められました。

新鮮で、面白かったです。


全体を通してみると、書いたときは、中々に酷いなと思ったものでしたが、今改めて読み直すと、私っぽくて、悪くないなと感じますね。


元気がないので、今回はこんなところで。

次回は、更新日がちょうど誕生日なので、27歳の振り返りをしようと思います。

よろしければ、またご覧ください。