こんばんは、マティです。

実存的不安(生きている意味が分からなくなる不安)にまつわるお話の最終回になります。


前回、私が実存的不安を感じる理由は、私が初期能力の割には、良い結果を出し続けられているからという話をしました。


「生きていることに感謝」というと宗教っぽいですし、私の実感とも合わないのですが、私は自分の「運の良さ」には感謝の念を持っています。

そして、そんな運に恵まれた私には責任があると思っています。

それが、私が「努力する」理由の一つです。

以下、少し詳しく説明してみます。


私は、他者に迷惑をかけないのであれば、基本的に何をしてもいいと思っています。なので、才能を持って生まれた人間が、それを社会に還元するべきだとは考えていません。

個人的には、そうした方がいいとは思いますが、それを他者に強制することは正しくないことです。


私は、自らの運の巡りのよさに、罪悪感のようなものがあります。それは、私が前回言った、想像上の自分の「死屍」に繋がる感覚です。

だからこそ、その罪滅ぼしとして「努力」するのです。

これが、私が「現在」のために努力すると前々回に言った意味(の一つ)です。

努力していると、今存在してていいんだなという安心感が得られます。



少々、話が変わりますが、私は「努力」あるいは「成長」は、一種の自己否定だと考えています。

今の自分では満足出来ないから、頑張るのです。


そして、そんな「より良くなった自分」を妄想できるからこそ、未来に希望を持つことができます。

換言すれば、私がこれからも暫くは生きていたいと思う理由はこれです。

私は、今が恵まれていると感じると同時に、もっと「まともに」なれるのではと考えてしまいます。


私は、未来のためだけに勉強するのではないと【102】のブログで言いました。

私が勉強する(努力する)理由は、今生きている実感を持つことができる、今生きてていいのだなと安心できる、そして、今より良い未来を想像できるからという感じでしょうか。



ここまでの話は、きっと一般的ではないので、理解しづらいと思うのですが、私はこんなことを考えながら生きています。これは「生きづらさ」と繋がっているのですが、私はそんな自分の人生に割と肯定的です。

そして、色々考えてしまうことは、しんどいですが、人生を豊かにすると信じています。

このように考えらえるようになったのも、成長の一つですね。


一文でも、皆さんが何かを考えるきっかけになれば嬉しく思います。


次回からは、もう少し軽い話というか、夏休みの思い出話でもしようかと。

またよろしければ、ご覧ください。