こんばんは、マティです。

今回は、私が実存的不安、つまり生きる意味が分からなくなる不安をなぜ抱えているのかを自己分析してお話ししていこうと思います。


まず根本的な話をすると、生きる意味が分からなくなる人、つまり、実存的不安を感じる人は、生きる意味を自分に問うことができる人だと思います。


「生きる」というのは、生得的なものです。

人間は、生まれるために努力をしたわけではありません。生を享けるというのは、自分以外の人たちの努力あるいは運命,巡り合わせの結果です。


私は、普遍的な(全員に当てはまる)生きる意味というのはないと思っています。なので、個人個人が、生きていく過程で探していく必要があります。


そして、「生きる意味」を持っていなくても、「生きる」ことはできます。

つまり、生きる意味というものは、生存に不可欠なものではありません。

それが分かっていても、生きる意味を考えてしまう人、生きる意味を自分で問う人は、それぞれ何某かの事情を抱えているのだと思います。


この事情について、私の過去に触れつつ考えていきましょう。


私の実存的不安の背景にある思い。

それは、私が今のような比較的恵まれた状況で生きていられるのは、奇跡的だということです。



比喩的に語ってみます。

私と初期設定(生まれ持った才能,家庭環境など)をほぼ同じにした人が100人いるとしましょう。

そうすると、49人は普通の人生を送っているものの、10人は、もう死んでしまっており、40人は非行に走るor心を壊してしまっていると想像します。

そして、普通というのは、私にとって目指すべきものではありません。ですから、私は1/100の宝くじを引き当てられたと捉えています。


これは、私の努力だけに依るものではなく、私の性格(人付き合いが好きではないこと)、暴力への忌避感、人との巡り合わせ(Hさんなど)など、運命的な要素のお陰です。



以上のような感覚を私はずっと抱いており、だからこそ、今の私は「生き残った」という思いがあります。

想像上の死屍(架空の自分)が、今の私につきまとっているのです。

そして、それゆえに、そんな「生き残った」私には、生きる意味を考え続けるべきだという意識があります。

これが、私の「実存的不安」です。


少しメタファーに寄ってしまいましたが、私の抱える強迫観念についてお話ししてみました。

お読みいただいた方が、なにかを感じていただければ嬉しいです。


次回で、この話は最後にしようと思います。

よろしければ、またご覧ください。