こんばんは、マティです。

今までも私が努力する理由は語ってきたのですが、今回から全3回で、最も根本的な話をしたいと思います。


そのためには、「実存的不安」という言葉が必要なので、まずはこの用語を導入しましょう。


「実存的不安」とは、簡単に言えば、生きる意味が分からなくなる不安のことです。

私は、この「実存的不安」を抱えているため、努力を続けるのだと考えています。

この辺りの話は次回以降に詳しくするとして、今回は少し別の視点でお話ししてみようと思います。



というわけで、「もし明日、世界が滅亡するならどうするか?」という問いについて考えてみましょう。

私が愛聴しているラジオ番組「問わず語りの神田伯山」(改名前の「問わず語りの神田松之丞」だったかもしれません)でこの問いが、話題に登ったことがありました。


伯山さんの小学校の同級生に、とても頭がいい子がいたそうです(彼は、今は東大で研究者をしているそうですが)。

伯山さんがその子に「そんな勉強ばっかりして、もし明日、世界が滅亡するかもしれないんだよ」と言ったら、彼は「それでも、僕は勉強するよ」と答えたというエピソードがありました。

※ ラジオクラウドを遡ってみたのですが、該当回が分からず、少しうろ覚えです...


それを聴いて、今の私も彼と同じような返答をするなと感じました。

ただ、その理由は、全然違っていると思います。



学校や塾で、子どもに「なんで勉強しないといけないの?」と訊かれたとき、一定数の大人は「将来のため」,「夢を叶えるため」,「未来の選択肢を狭めないため」といった答えをするのではないかと思います。

きっと、そんな人たちは、明日、あるいは1年後に世界が滅びるなら、努力をしなくなるでしょう。


世界が明日滅びるとしても、今日の私が努力する理由は、私が「今」のためにも勉強しているからだと思っています。

勿論、10割「今」のためというのではなく、半分くらいは「未来」のためです。

ただ、今の自分を認めるためという側面も、私の努力には存在するのです。



私は、生きる意味が分からないという「実存的不安」はそれほど感じていません。

どちらかというと、日々努力し成長することで、生きる意味を感じ続けていられるというのが適切でしょうか。



今回は、一旦こんなところで。

次回は、もう少し私の過去に踏み込みつつ、話を続けたいと思います。

またよろしければご覧ください。