お久しぶりです。
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久々の更新なので、ちょっと前の話になるが、年末ジャンボ宝くじを買った。30枚。
宝くじと言えば皆さんご存知の通り、一等の当選金額は前後賞合わせて三億円。三億あったら大概の物は買える。元ライブドア社長の堀江なんたらに言わせれば、人の心までも買えるらしい。俺はそこまでは思わないけど、やっぱり大金の魅力は圧倒的なものがある。あぁ、三億円あったなら。
とは言え、三億もの金がポンと手に入ってしまう事がはたして幸運って言えるだろうか。
もし、当選してしまったら突然の出来事に驚愕のあまり意味不明な使い方をしてしまうかもしれない。それに、当選の事実はどうしたってバレる。寄附の催促から始まり、揚げ句は見たこともない親戚が増え、金の魅力にとりつかれた大人達の中で人間不信に陥って人生をダメにしてしまうかもしれない。
人間には「器」というものがある。その人にはその人相応の器があって、それを逸脱するとおかしな事になるわけだ。
金のことばかり言ってる奴に金は入らない、なんて話もある。どうも俺にはそんな器はない気がするし、そもそもこんな話をしてる段階でダメだ。だから、もういっそ三億なんていらない。愛とかそういうのをくれ。
無欲な者にこそ金は入るらしいので、こんなことをしれっと言う俺にも地味に百万円くらい当たらないだろうか。
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三億円と言えば、今日から9日前の12月10日は「三億円事件の日」なんだそうだ。
1968年の12月10日、日本信託銀行国分寺支店から東京芝浦電気府中工場の従業員のボーナス三億円の入ったジュラルミンケースを護送中に白バイ警官の姿をした犯人が現れ「この車にダイナマイトが仕掛けられていると連絡があった」と車を調べるふりをして発煙筒に点火後、その車を運転して逃走した。
犯罪史上まれに見る巧妙な手口によるこの事件から40年経つということでここ最近特番が組まれたりと、色々と話題になった。
この三億円事件の特番を見ながら母親が「この事件は忘れられない」とかなんとか、そんな話をし始めた。何か関わりがあるのかと思いきや、何のことはない。ただ、その日に盲腸になって虫垂炎になりかかって大変だったみたいな話。まぁ、当人にとっては犯罪史上に残る大事件にも関心を抱けない程の痛みだったのだろう。とはいえ、別にそれと比較するのはおかしな話だ。
まぁ、ともかく、それが俺の母親にとって一番記憶に残る12月10日だったんだそうだ。
ちなみに、その14年後の1982年の12月10日に同じように腹を痛めて俺を産んだはずなんだが、そこらへんはどうなんだ。まぁ、別にいいんだけど。
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そんなわけで26歳になった。
ついこの前、成人したばかりだと思っていたのに気づいたら20代の後半になっていた。人生は長いが、時間の流れはそんなことを忘れるくらいに年々加速しているように思う。感覚的には明後日くらいには30代の中盤になっていそうな、そんな感じ。
まぁ、そうはいっても、だ。
なんだかんだで人生全体で考えればまだだいぶ先は長い。俺に残された時間はかなりある。その時間の大部分を俺は一体何に費やすんだろうと考えると、おそらくそれは「仕事」ということになるだろう。長い人生の大半を金を得るために身を粉にして働く。考えると、それはかなり憂鬱なことに思えてくる。自分の人生は自分の好きなことに捧げたい。でも、生きていかなければならない。親だっていつまでも生きてはいない。どこかでまかり間違って俺が親になることもあるだろう。そんな時に必要なものといえば何だろう。
金だ。
やっぱり、金って大事だと思う。何にも代えがたいとは言わないが、逆に大抵のものとは換えられることがその価値だと思う。自分の命を守る手段として、家族の生活を守る手段として、夢を叶える手段として。金の力の大きさはそういうことにあると思う。
だから、三億円当たらないかな。宝くじで。奇しくもちょうど三億円事件の14年後に生まれた俺が、三億円事件のちょうど40年後に宝くじを買ったわけだから、なんだか運命的なものを感じないだろうか。誰も感じてなくても、俺は感じてるんだけど。
ていうか、もうこれはアレじゃないかな。天命。宝くじを当てろっていう天命。神様もずいぶんと生々しい天命を与えるものだが、まぁ、いい。思い当たるふしはこれっぽっちも無いが、きっと、なんかいいことをしたんだろう。
あぁ、宝くじが当たったら何をしよう。とりあえず空の風呂に札を入れてその中に入ってみたりしようか。よく週刊誌の最後にある広告みたいに。考えれば考える程に夢は膨らむ。宝くじ最高。
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ちなみに、一億円の札束は日銀のバーチャルツアーというサイトによれば横38cm、縦32cm、高さ約10cm、重さは約10kgだそうだ。
三億となるとその三倍。横114cm、縦96cm、高さ約30cm、重さ30kgということになる。しかもこれはきっちりパックされた状態だから札束の封を切ってしまったら更に凄いことになる。これ、俺んちの風呂に入らない気がする。札風呂をやるには、三億当たったらまず風呂を大きくしなければならないようだ。やっぱり意味不明な使い方をしてしまっている。
人間には相応の器というものがある。そこでわかったのは、俺どころか風呂すら三億の器ではないらしい、ということ。なんだか悲しくなってきた。気持の余裕は経済的な余裕から。余裕があったらこんな気持ちにはならないのに。
あぁ三億円あったなら。