東日本大震災から13年経ちました

 

 


日常生活では、この日の事を忘れてしまう事が多くなりましたが、緊急地震速報のアラームが鳴ると、あの揺れが来るかも。と、全身が緊張する。

 

忘れる事はできない。

 

 

 

幸い、家族や友人は亡くなる状況はなかったが、沿岸部の友人は酷い被害を受けた。

 

時が経って

幼かった子供たちは、成長し次男も20歳になった。

そして私たちは、老いて来た。

 

10年を節目にして

発信をやめようかと思ったが

新しくご縁があり、ここを訪れて下さった方々が、リブログを読んで頂けたら

大震災を語り継げるのかも‥と、続けて

毎年、当時の事を書いたものを

リブログし続けています。


特に、今年は能登の地震があり、過去に

原発が設置されようとしたところが

崩れていたのを先日初めて知りました。

反対活動をされた市民団体の方々の尽力のお陰で甚大な被害を被る事がなかったと思います。

日本政府は、何をしたいんだろう。

呆れています。


加筆しながら、震災の記憶を今年も残します。






 

長男は前駆の震度4の地震が高校入学試験中にあり

3.11の震災以降、中学の卒業式もままならず

厳しい高校生活のスタートだったことを思い出します。

 

 

 大震災当日

 

我が家は、津波も、原発事故もない内陸部でしたが

その影響は計り知れないものがありました。

今でも、ちょっとの揺れでも震災時の恐怖がよみがえります。

 

3.11

今年このブログを初めてみてくださった方

毎年見てくださっている方々に。

震災の記憶を忘れてはいけない。

そして次世代にこの記憶をつなげなければならない。

年を追うごとにそう思います。

毎年、震災当時に書いたブログを再掲載しています。

 

あの日を忘れないために。

 

 

 

☆.。.†:*・゜☆.。†.:*・゜☆.。.†:*・゜☆.。†

 

2011.3.11
東日本大震災発生。

私は当時、青少年教育施設に勤めていました。

アメブロを始める前に書いていた記録を、
他所から引っ張ってきて毎年この時期にUPしています。

震災の記憶が薄れていかないように…。


゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚ 


3/11地震発生
 
職場にいた。いつもと同じ・・だったはず。。。
地震速報の警報がけたたましくなったと思ったら
すごい揺れが起きた。
今までに経験したことがないような揺れ。
長い・・。2-3分揺れた?
この建物でこんなに揺れるなんて・・。
 
利用者さん(職場にいたので)の様子を見に走った。
幸いどなたもお怪我もなく・・安堵。
強い揺れが何度も何度も・・・。
子供たちは。。。学校にいるかも。。うん、大丈夫だ。。
そう自分に言い聞かせた。
 
3時に到着した。ある高校のバス。
受け入れができないと判断し、お帰りいただくことになったらしい。
遠路はるばる来ていただいたのに。。。申し訳なかった。
 
退勤していいといわれ、駐車場に行くと
メールが続々届いた。旦那は大丈夫だ・・と。よかった!
地元北海道の友達からも、心配するメールが続々来ていた。
今回、ドコモのメールが一番つながりやすいと判明
 
家までの道はすべて信号が止まり、右左折、直進すら、恐怖を感じた。
左折した途端に無理に右折で車線に入ろうとした車が道をふさいでおり、
4台先で全然動かない。どうしよう・・・。
東北人はクラクションを鳴らさないので、じっと待っている。
何やってんのよーって感じで
しびれを切らして私がけたたましくクラクションを鳴らしたら
やっと車間をつめて、その邪魔な車を入れていた。
突っ込むやつもバカだけど、道がふさがってるのに入れないやつもバカ。
やっと、渋滞解消・・。ため息
 
道すがらのコンビニは、店を閉めていたり
行列ができていたりして
なにも買えなかった。
まず、家に帰ろう…。そう思って、車を走らせた。
 
二男は学童で無事にいてくれた。
家に帰ると長男(中3)が庭にいた。
額を切っていた。でも自分で手当てしていて、傷が浅かったのでよかった。
明日が卒業式なので、早く下校したとのこと。
家に入った途端、
あのものすごい揺れが来たらしい。
 
家の中は、居間の棚が倒れ、荒れ果てて、台所は割れた食器だらけ。
PCとテレビなどのAV類が倒れなかったのが奇跡!
寝室はほとんど被害がなかった。
 
余震がすごい・・・。
電気は止まっているが、水はかろうじて出ていた。
助かった・・。一応、お風呂に水をためてやかんなどに飲み水の確保。
長男は割れた食器だらけの台所から、ペットボトルの水や、
食べられそうなものを発掘してくれた。
こんなにたくましく育ってくれたんだと、感激した。
 
余震がひどくて怖いので
毛布なども車の中に運び、その夜は2台の車の中で過ごした。
ナビのワンセグをずっと見ていた。
 
甚大な津波被害が放送されていた。
沿岸にいる友達は大丈夫だろうか…。
8時ごろ、突然携帯が鳴り、北海道の友達から
安否確認の電話が・・。通じる!!
でもそれも一時だった。
メールで連絡を取る。
実家もメールで連絡がとれて安心したと・・。
 
雪が積もった。寒い朝。
電気が戻ってないので
古い反射式ストーブを出してきて(捨てなくてよかった!)
夜に備えた。
家の中を片付け、皆で居間に集まっていた。
ストーブを焚いても余震がひっきりなしに来て
耐震装置が働くので消火され、温まるどころではなかった。

電気がないって、こんなにつらいんだ。
 
地震発生から3日目の午後にやっと電気が来た途端、
一瞬飛び上って喜んでしまった。
 
これで済むと思ったら、
まだまだ、問題山積。
 
ガソリン。。。。。通勤に備えて
3時間並んでハイオクしか買えなかった。
(軽にハイオクっていいんでしょうかね?)
北上では8時間並んでもまだ買えないとか??
 
灯油。。。。うちは、灯油ボイラー灯油ストーブなので
買えない状況が続くと・・やばいです。でも、耐えるしかない。
 
日用品。。。。お店から物がなくなっています。
食べ物は朝一でスーパーに行くと、ある程度調達できそう。
長男は友達6人で片道2-3時間かけて歩いて
イオンに買いに行きました。どこにもなかったパスタをゲット!
車が使えないせいか、あまり人がいなかったとのこと。
 
電池はほとんどありません。
困っていたら、
3/16 北海道の友達からポスパケットが届き
電池がたくさん!!!!きゃーーーーー!!!!!
ありがたいーーー(号泣)
 
実家ではゆうパック等の荷物はもちろんのこと、
岩手向けの荷物は届くかどうかわからないと言われたとのことだったが。
ありがとう!日本郵便!!
ありがとう!友よ!!
 
さっそく北海道の実家でも、ポスパケットで救援物資を送ってくれるそうです。
 
 
余震が続いています。
今、これを書いている時も大きな揺れがきます。
 
不自由な生活ですし、職場も自宅待機です(お時給非常勤なので、
収入の保障はありません)
旦那は1時間以上歩いて通勤しています。
ほかの地域では甚大な被害で、安否がわからない友達もいます。
もっと、つらい目にあってる人がいる・・と
頑張らなくちゃ・・と・・自分に言い聞かせています。
 
アメリカの友人からも心配するe-mailが届き、
九州の友人からも、支援の物資、送れるようになったら
日用品をおくるから!と連絡もきました。

日本だけではなく、世界中で見守ってくれているのを感じました。
被害にあわれている方々!頑張りましょう!!

(2011.3.17記)

 



このあと、4月にまた大きな余震が来て長時間停電した。
この震災を経験していたせいか
泣きたくなるようなダメージがあった。
長男の中学校の卒業式も延び、
高校に入学しても震災の影響が多々あり
大変な日々でした。


私は、その1週間ほど前に診断は気管支炎だったが(誤診で、じつはぜんそく)数日入院し退院した直後震災だったので、悪化しないか心配だったが
気がはっていたせいか再発もせずに
過ごせたのが幸いでした。
ま、職場の環境が良くなかったのははっきりしていましたがね。

仕事に行かなきゃ、発作(咳)が出ないという。

でも、病院に入院していて被災していたら
どうだったのだろうという感じでした。怖い。


大震災で家族がもっと結束した感じがしました。

 

たくさんのお亡くなりになられた方に・・
ご冥福をお祈りし、合掌。

震災被災地、東北のさらなる復興を。。。


゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚ 

 

 

 

 大好きなONE OK ROCKの「Be the light」を捧げます。
(注:オフィシャルなPVではありません。)

 



 



 

壊れたもの、は買い戻せました。
でも買い戻せない、大切な命、思い出、記憶にある町並みを
失った方々の悲しみを思うと・・・。

 

元の日常生活にいまだ戻れない方々

 

愛する人を亡くされた方々

 

お亡くなりになられた方のご冥福を祈り

すべてに想いを馳せ

未曾有のあの大震災は

忘れてはいけない

 

そして、いつまたこのような大災害が

起こるかもしれないと

生きていくため

備えていかなければならない